新宿の青年劇場スタジオで篠原久美子作、五戸真理枝演出「マクベスの妻と呼ばれた女」の千秋楽を観た。

 

1999年の劇作家協会「優秀新人戯曲賞」を受賞した戯曲はちっとも古びていない紛れもない名作!

この国で女であることの実態を見事に炙り出してくれている。

 

それにしても書かれてから24年経った今もその実態があまり変わっていなくて「今」のことのようにヴィヴィッドに響いてくるというのも、、それはそれでトホホ。。な感じ。

 

********** 演劇サイト より *******

綺麗は汚く、汚いは綺麗。
いつ又、女は泣くのだろう。
どさくさごっこがおさまって、いくさに勝って負けたとき

名前を持たない「マクベス夫人」に、シェイクスピア作品の中から飛び出してきた女たちが問いかける。
「マクベス夫人、あなたのお名前は?」
父に従い、夫に尽くし、子に仕えることを美徳として生きてきた女の答えとは…。

シェイクスピアの四大悲劇のひとつ「マクベス」を背景に、その妻と女中たちの葛藤を描く篠原久美子氏の傑作。
第30回読売演劇大賞最優秀演出家賞を受賞した文学座の五戸真理枝氏を初めて演出に迎え、青年劇場の新たな境地に挑む意欲作!

 

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将軍マクベスとその周りで天下取りを展開する男達の流血の争い、、を台所で、給仕室で、、冷めた目で見ていた女達が本音で語ったら?というストーリーになっている。

そんな彼女たちが見ている様は「マクベス」の戯曲の世界そのままなので、彼女たちの考えが劇の主軸となってはいるが、そこにはきちんと原作の筋も組み込まれ、戯曲の流れ通りにことが運ぶ仕掛けになっているところがこの戯曲の素晴らしいところ。

 

女達のトップで采配をふるうのがマクベス夫人はいわゆる昔から言われてきた”良妻”として、ご主人さまから一歩も十歩もさがって、その姿が見えないところを歩るくような女性。

彼女はその自身の”良妻”という価値観に絶対の自信を持ち、それゆえ”見えない女”として名前さえ意図的に無くし「マクベス夫人」として存在することを良しとしている。

 

そんな彼女に本当にそれで良いのか?と問いを投げかけるのはシェイクスピア劇に登場する女性(ヘカティ、ポーシャ、ケイト、ロザラインなど)たちの名前がついた女中たち。

彼女たちには、まずはダンカン王殺しの犯人は誰なのかをつきとめる、という表向きの方向性はあるものの、実のところそんなことをさせてしまうこの世の不条理の根源を炙り出す、夫に付随する名前のない”女”という不平等を明らかにするという劇を貫く真のテーマが託されている。

 

青年劇場の女優さんたち10人が一人一人のキャラクターを見事に個性的に演じてくれていて、小ぶりの舞台をカーテンの仕切りやお立ち台のような椅子使いでその狭さを感じさせずスピーディーに、そしてカラフルに見せてくれた五戸の演出も見事。

 

良い芝居を見せてもらった!!

 

余談になるが、この芝居を観た前日にWOWWOWで天海祐希主演の舞台「レイディ・マクベス」をやっていて、偶然、終盤だけちょこっと観ることができたのだが(舞台は公演時に観ている)、同じマクベス夫人でもその扱われ方、捉え方は国によって随分と違っているな、と感じた。

 

「レイディ・マクベス」は英国の若手女性作家ジュード・クリスチャンによるもので、天海演じるマクベス夫人は名前こそないものの、どちらかと言えば内省的な夫マクベス(アダム・クーパー)の尻を叩いて、どんどん戦場へと出ていく、(もし娘さえいなければ)戦いたいと思っている女性。

そして、そんな彼女を周りは素晴らしい女性、と評価している。

 

あくまでも夫の影を踏まず、自身の存在をを消して夫に尽くすのが美徳とされる社会と、女の社会進出は当たり前だが、王となるのは男性であるマクベスという矛盾を抱える社会、、、そこに女性の地位のレベルの差こそあれ、、まだまだ最終的に目指すところは先にありそう。