夜は目白に移動してシアター風姿花伝で広田淳一率いる劇団アマヤドリのイプセン劇「人形の家」を観劇。

 

今回の公演が変則企画となっていて、会話主体の「激論版」と身体主体の「疾走版」の2パターンの日替わり上演となっている。

 

筆者は原作にそって忠実に上演している「激論版」を観たのだが、巷の演劇サイトの評によると「疾走版」(90分の短縮版)はダンスが入った戯曲のコラージュのような、なかなかに挑戦的な演出だったらしい。

そちらも観てみればよかった、とちょっと心残り。

 

激論版は2時間10分の一挙上演。セリフは今どきの言葉になっているが、戯曲の筋自体は原作にそっている。

 

「人形の家」はその舞台が上演される場所(国)の女性の地位、そして演出家の女性観が反映される戯曲だと思うのだが、その意味で言うと、今回の広田による主人公ノーラ(徳倉マドカ)は今どきの日本人の女性たちを代表しているようなキャラクターだった。

 

ハイスペックの旦那トルヴァル(倉田大輔)を捕まえて、いわゆる勝ち組の仲間入りをし、さらに言えばアゲマンとして夫をさらにリッチに、そしてパワフルにすることも計算できてしまう、ちゃっかりお嬢さん。

そんな旦那はちょっと時代錯誤のセクハラ・パワハラかも?と思いながらも目をぱちぱちと瞬かせて高い声でおねだりポーズを決める、そんな風にすれば旦那をコントロールするのなんてか〜〜んたん、と心得ている要領の良い、つまり頭の回転も早い女の子。

 

劇の前半では、そんな彼女の”あざとさ”を見破れず、ノーラはもっと賢い女性として描かれなくては?などと思っていたのだが、終盤であっさり、きっぱりとミソジニー、、と言うかもっと根本のところで単細胞な夫に見切りをつけて「次」に行くシーンで「あれ?もしかしたらこの娘、というか女性、なかなか出来る女性なのかも。。」と考えが変わった。

となると、なるほど、これが現代の「人形の家」なのね、と。

 

ほとんどの出来事が起こる居間のセットが調度品などから屋外に見えてしまうのは損かも、そして子供の扱い(登場のさせ方)も、、さらなる工夫があっても良かったと感じた。

 

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