渋谷パルコ劇場で山本卓卓作、杉原邦生演出の舞台「東京輪舞」を観た。

 

今勢いのある演劇第七世代?(これまで何世代を経たのかは不明、つまり若手に属する人たちという意味)の二人がタッグを組んで、商業劇場の代表格であるパルコ劇場で公演ということで、彼らの若い感覚を詰め込んだ今作。

 

と言うのも、もとは杉原に世紀末ウィーンで活躍した作家シュニッツラーの代表作「輪舞」を英国人劇作家デヴィッド・ヘアー翻案化し1998年にロンドンでニコール・キッドマン、イアン・グレン主演、サム・メンデス演出で世界初演された「ブルー・ルーム」を演出しないか?という提案から出発し、そこで杉原がさらに現代の日本の話としてアップデートした翻案新作にしたい、、という流れで山本に執筆を依頼したという創作背景があるからだ。

 

基本的な劇構成—二人の男女のエピソードが繋がっていく10景からなる芝居—は変えず、男女のキャラクターの詳細、エピソードを「今」の日本に置き換えて、パルコのある渋谷の街のどこかで起こっているような、そんなちょっと危うい、交わりながらもどこかもつれた男と女の関係を描いている。

 

何らかのセックス(さまざまな状況で)を連想させる10シーンの男と女すべてを高木雅也と清水くるみが演じ切っている。

 

前述の「ブルー・ルーム」はキッドマンがヌードになり際どい表現まで挑んだこともあり、ウェストエンド、そしてブロードウェイでもチケット入手が困難な大ヒット作となったのだが、日本でもT.P.T(シアター・プロジェクト・トキョー)がいち早く敏感に反応し、2001年に秋山菜津子、内野聖陽のキャスト、デヴィット・ルヴォー演出で上演され、こちらも大評判となった。

 

筆者はT.P.Tの舞台は多く観ているのだが、こちらは残念なことに見逃している。

のちにT.P.Tの関係者に聞いた話では、幕を開けると、当時舞台や映画で活躍していた内野のファンが劇場に大挙し、それまで見たことのない(チケット争奪の)行列、賑わいで彼の人気にあらためて驚かされたということだった。

 

———ちなみに、「東京輪舞」の有料のパンフレットには「ブルー・ルーム」主演だった二人、秋山と内野、そして今回の演出家杉原の3者対談が載っていて、当時のベニサン・ピット(T.P.Tの拠点であり劇場)の小劇場で薄暗い照明の中でのヌードシーンの様子や演出家ルヴォーの計算された導き(演出)方などが語られていて面白い。

 

そう言えば、以前ルヴォーにインタビューした際に秋山菜津子の(舞台上での)セクシーさをとても誉めていたのを思い出した。

 

今回も清水くるみのコロコロと色を変え、七変化する、いろんなタイプの女性たちの演技が素晴らしい。

時に同じ人がやっているとは思えないほどの変わりようで、それでいてそれぞれが強いキャラクターとして個性を発揮しているのが良い。

 

T.P.Tの小劇場上演では舞台が目の前にあるほどの近さで、次々と男女のベッドシーンが演じられていったそうなのだが、今回は中規模のパルコ劇場。

舞台上には東京、トーキョー、Tokyo、、の文字が羅列されプリントされた背景と床、そこにRONDEのアルファベット文字を大きく立体化させたセットがあるのみ。そのアルファベットの文字がシーンごとに移動し、簡単な舞台装置(時に部屋の壁になったり、街の風景になったり)に変換していた。このシンプルな装置が規則性を作り、それでいて劇の核である男女のやりとり(会話)を邪魔することなく効果的に働いていた。

 

始めはこの輪舞というつなげていく(結局はどんな男女も行きつくところ、そしてはじまりは同じということなのだろう)ルールを観客に会得してもらうためなのか、比較的想像しやすい男女の関係が繋がっていくのだが、途中性別を超えたクィアなカップルが現れるあたりから山本の筆が走り出す。(これが1900年の「輪舞」にも1998年の「ブルー・ルーム」にもない今の関係)

これらの多様性が提示されなければ、アップデートも中途半端なものになっていたかもしれない。

 

 

また、反面、「ブルー・ルーム」の対談を読んでいると背徳の男女関係にある欲望と表向きの社会性、愛欲、その濃密さなどなどがそこに濃くあるように思えるが、現代の恋愛感情には恋愛感情だけではないもの、現代の社会状況や貧富の差、情報化社会などが絡んできて、そこはドライな空っ風が吹いているようにも感じる。