パルコ劇場で英国人演出家ショーン・ホームズが演出した「桜の園」を観た。

 

******* 演劇サイト より *********

”桜の園”の競売をきかっけに、あらわになる人々の生き様。
『セールスマンの死』(22年春)の斬新な演出で日本の演劇ファンをうならせたショーン・ホームズ。次に挑むのはチェーホフが時代の大きな転換点に描き上げた生涯最後の戯曲『桜の園』。
豪華キャストを迎え、信頼するクリエイター陣と共に、120年の時を、国境を越え、現代に蘇らせます。

 

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滅びゆく帝政ロシアで最後の大地主として没落していく女主人ラネーフスカヤを演じるのが原田美枝子。新興プルジョワジーで実業家のロパーヒンを八嶋智人、浮世離れした上流階級のラネーフスカヤの兄ガーエフを松尾貴史が演じている。

 

まず、この舞台を評する際にはっきりとさせておかなければならないのはこれがアントン・チェーホフの「桜の園」と言うよりは(英語版の脚本を執筆した)サイモン・スティーヴンスの「桜の園」だと言うこと。

 

ただ単にロシア語を英語に翻訳したのではなく、そこに彼なりの解釈、そしてそこから伝えたいことを盛り込み、現代上演に向けて話の強弱も加えて脚本にしたものだと言うことだ。

その翻案の主たるものとしては、登場する男性陣のほとんどがラネーフスカヤの魅力に現在形でメロメロだということ、登場人物たちがかなりポンコツで変人だということ、、そしてそんな人たちの群像劇に今日のトピックス—資本主義がもたらした恒久的な悪影響—への警鐘を盛り込んでいるということ。

 

当然のことながら、そのサイモンの脚本を演出した舞台ということなので、ショーンの舞台化もそれに沿った作品に仕上がっている。

 

観劇前にはそんなこととは知らず、当然チェーホフの「桜の園」をこれから観るぞ!と意気込んでいるわけなので、幕開けからしばらくは、まだ劇世界に入っていけず呆気に取られている時間があった。

それが観続けるうちに、サイモンとショーンが作り上げた世界にはまっていき、、、なるほど、と思わせられる面白い観劇体験となった。

 

チェーホフ作品の中でも「三人姉妹」と並んで上演されることの多い「桜の園」、思い出されるだけでもラネーフスカヤとロパーヒンの組み合わせとして蜷川幸雄演出・麻美れいと香川照之、栗山民也演出の森光子と津嘉山正種、鵜山仁演出の田中裕子と柄本佑、今回と同じくパルコ劇場で上演された三谷幸喜演出の浅丘ルリ子と市川しんぺー(ちなみに市川は今回近所の地主ピーシチク役で出演している)、流山児事務所の安奈淳と池下重大、SISカンパニーのケラリーノ・サンドロヴィッチ演出は大竹しのぶと生瀬勝久のキャストが予定されていたがコロナ禍で中止が余儀なくされ、幻の組み合わせと(今のところ)なっている。

 

蜷川版は王道で麻美れい、そして香川—これはとても印象に残っている—の組み合わせは絵に描いたよう、栗山版の日本に置き換えての森光子の着物姿のラネーフスカヤもいつも集団の中心にいて印象深かった。

そしてほとんどの日本上演版が悲劇のトーンで上演されている。

三谷版は何と言ってもAKB48の曲"ヘビーローテーション”を替え歌にして「どんどん倒れる桜の木、、、チェリー・オーチャード」が強烈で忘れられない。あれは確実に日本ではっきりと喜劇として「桜の園」を演出した珍しい舞台だった。

 

で、今回の原田と八嶋の組み合わせだが、これはこれで作家と演出家の意図をしっかりと汲んだ役作りになっているなと思った。八嶋のロパーヒンはある意味とても理にかなっていた。

 

まず、男性陣がメロメロになっている絶対美女、それも色気がダダ漏れしている女主人のラネーフスカヤ。その意味では原田美枝子で正解だったのだと思う。

パンフレットの中で英語翻訳家サイモンが「これは失恋とアルコール依存だらけの戯曲だ。ギャンブルとダンスとスラップスティック・コメディとセックスだらけの戯曲だ。。。」と語っているのだが、この意図を知れば、舞台上のあらゆることがなるほど〜〜となってくる。

 

ロパーヒンを含め、みんなラネーフスカヤに恋愛感情を持って憧れていて、酒飲みばかり、馬鹿騒ぎ好きばかり、、そして「世界一運の無い男」エピホードフ(前原滉)はお決まりのスラップスティックコメディを体現してくれている。

松尾のガーエフも喜劇要素が満載だ。—>そして喜劇と言っても変におちゃらけていないのが良い。

 

主人公を一人置いての劇ではなく、複数人によるアンサンブルの芝居であると言う演出家の言うように、代わる代わるに登場するギリギリの立場の登場人物たちはみなやりたい放題である意味やけっぱち(明日は一文なしという状態にもかかわらず)。

 

そんな屋敷の中の浮かれた人々をよそに、屋敷の裏に造られたバリケードの外ではこの桜の園の未来を知っている工事人たちが木を伐る準備のため集まっている(永島敬三)。

 

演出家、そしておそらく演出家と親しい英語翻訳家らが企んだのが、今の私たちを見せること。

 

地球がタイムリミットの秒針を進める中、それを見て見ぬふりして無邪気に浮かれる私たち。

 

そのようにして観ると、つくづく「なるほど〜〜」と多くに納得のいく舞台だった。

 

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余談となるが、今回の舞台を観て、海外戯曲の上演の仕方の模索というのがこれからもっともっと盛んになっていくだろうな、と思った。

 

英国で記憶に新しいのがNTが2016年に上演し、人気を博したDavid Hareがチェーホフの「Platonov」「Ivanov」「The Seagull」を翻案した舞台。

渡英の際に観劇する機会があったのだが、長時間の舞台ながら劇場は終始笑いに包まれ、活気に満ちていた。晩年に執筆された有名な4作品以外のチェーホフ戯曲に新たに光をあてるという意味でも、楽しめる上演だった。

今回のパルコ劇場の「桜の園」を含め、英語ではない戯曲の上演に新たなアプローチが続々と出てきているということなのだろう。

 

日本での上演でも、「翻訳・脚本」xxxx と、翻訳ブラスαを示唆している舞台はある。

— そもそも、日本語というヨーロッパの言語・文化とはかけ離れた言語での上演という特質から、おもしろい翻案舞台が生まれやすいという状況はずっとあった。

 

コンテンポラリー演劇の中の一つのジャンルとして古典の現代化はひとつ面白い分野だと思った。