東京芸術劇場シアターイーストで同劇場が運営している若手の俳優が名を連ねる俳優育成(?!—既に一線で活躍している人たちも多く含まれるので、俳優たちのためのワークショップコースとでも言えば良いのか?)事業「東京演劇道場」の公演、ソーントン・ワイルダーのピューリッツァー賞受賞戯曲、現代演劇の原点とも言える傑作「わが町」を若手俳優たちが演じる舞台を観た。

 

演出はその「わが町」をベースにし、アメリカの小さな町から広げて「我々が住むこの惑星」という宇宙規模にまで視野を拡大し、ラップのリズムにのせた音の規則性と日常と惑星の軌道運動というテーマがうまくハマった、日本の現代戯曲史上に燦然と輝く傑作を生み出した柴幸男(劇作家・演出家)が担当している。ー近年の岸田戯曲賞受賞作品の中でも特に、後世にまで残る素晴らしい作品の1本だと思っている。

 

既に「わが町」をテーマに傑作オリジナルを創作している柴がどのような舞台をみせるのか、期待を胸に席についたのだが、、、これが戯曲の良さが作りすぎのスタイルの結果、うまく伝わらず、ましてや若手俳優たちのお披露目公演の目的が全く果たされずに終わってしまった残念な上演となった。

 

シアターイーストの真ん中に舞台エリアが設置され、三方を客席が囲む形となっている。その舞台エリアのまた中央にはレスリング競技場のマットように白くて四角い平台が置かれている。この平台、最初は四角い平らなものなのだが、実は組み木のような構造になっていてシーンにあわせて違う形に組まれたり、バラバラにして別のセットの一部として使われたりする。

そして、その真ん中の平台の左右には飛石のように小さな黒くて四角い台が並んでいる。

その黒い小さな台は何なのか?? その答えは次に。

 

最初に劇を進行していく語り手二人が登場、真ん中の白い平台をこの劇の舞台となるグローヴァーズ・コーナーズエリアの地図に見立て、街の構成、そこに住む人々について語り始める。何もない空間を指差しながら、観客の頭の中に町のマップを描いていく。

ふむふむ、、と思っていたところに町の人々たち(役者)が彼らの役であるキャラクターの人形(木製?の手と首が動く上半身のみの人形)を持ってエリアに入ってきて、人形を遣いをしながら劇を進行していくという趣向なのだ。

ーー>黒い台は人形たちが出番でない時にスタンバっているための人形の椅子だった。

 

結果、残念なことに、この人形遣いの演出が、せっかくの役者たちのお披露目会のこの機会を台無しにしてしまっていた。と言うのも、彼らはもちろん人形遣いではないので、せっかくの人形が彼らの演技、表現の邪魔になってしまっていたからだ。当然のことながら、人形に気を配る分、他の部分がおろそかに。これだったら、リーディングにしてセリフに集中してもらった方がまだ良かったのかも。

 

ライブで人が演じる演劇舞台の基本である、人間が人間を相手に物語を語って見せていく、と言う演劇の醍醐味がすっかり削がれてしまっていて、これでは演技の訓練を集中して受けてきた彼らの魅力を発揮するというこの公演の第一の目的が成されていないという本末転倒な結果に終わってしまっていた。特に、この「わが町」という日常生活を淡々と描いた芝居の場合、役者という生身の人間たちの間でなされる会話、会話からうまれる反応が劇を形作っていくものなので、そこに血が通っていないと成り立たない(人形浄瑠璃など、プロの人形遣いになると話は変わってくるのだと思うが)。

 

また、大人数の役者たちが短いスパンで次々と役を替えて進行していくー>その度にキャラクターの人形を引き継ぎながら、というスタイルも、ただでさえ人数が多い中、人形の体も加わり、ごちゃごちゃとして話が伝わってこない。

 

Act2ではなぜか、グローヴァーズ・コーナーから設定が東京に移り、若いカップルのデートが人形を使った映像という形で表されるのだが、、、なぜいきなり東京なのか、それも人形を映した映像で。。。こうなるとお遊戯会レベルになってしまい、すっかりしらけてしまった。

 

「わが町」は完成度のとても高い戯曲なので、ただ忠実に演じてみせていくだけで、多くのことを観客に感じてもらえる ーーだからこそ今回のような若手の舞台(単に若手とは言い難いが)、またはアマチュアの劇団などでも多く演じられる ーーのだと思うが、その戯曲の良さがことごとく消されて、技巧だけが中途半端に残ってしまっていた。

 

戯曲にとっても、また俳優にとっても、、良いところが見せられず終わってしまった作品。。。。う〜〜む、残念。