米国人のピューリッツアー賞受賞作家アーサー・ミラーの代表作「みんな我が子」をシアターコクーンで観た。

ミラーのもう一つの代表作(日本ではこちらの方が圧倒的に有名で、多く上演されている)「セールスマンの死」を先日、同じく渋谷にあるもう一つの代表的な商業劇場、パルコ劇場で観たばかり。面白いことに両作品とも英国人の演出家が演出にあたっている。

—今回は以前に「十二人の怒れる男」の演出でコクーンデビューを果たした英国人リンゼイ・ポズナーが演出、そして同じく英国人のピーター・マッキントッシュが美術を担当している。

 

記憶に新しいところで見比べてみると、同じ作家の作品だと思わせる共通点—父親と息子2人の崩壊した関係、父親の不幸な行く末 など—が見えてくる。

誰が言ったのか、、、結局のところ作家が書きたいこと、伝えたいことというのは決まっていて、ドラマの詳細が違っていてもそのテーマは共通していることが多い、とか。

 

ミラーという人が追い続けていたテーマとは何だったのだろうか。

そこには彼が育った環境、時代背景などが関係してくることは大いに予想できることで、そこでWikiを開いてみたら、”高校卒業後、ミシガン大学に入学するが、成績の低さが原因で奨学金が受けられず、更に大恐慌によって父親からの支援がなくなり、2年ほど自動車生産工場で働く。入学後、演劇を学び、在学中からラジオドラマの脚本を皮切りに劇作を始めた。”とあり、劇中の親子のような、彼自身と父親との確執なども頭をよぎった。

 

とは言え、その後彼は米国を代表する作家となったわけで、作品が後世に残る名作としてあるのは、ある個人の家族の話にとどまっていないことは明らか。米国という世界一の大国が世界大戦後に歩んでいく大いなる発展の道筋、さらにはその後に待ち受けることになる、アメリカ、いや多くの自由資本主義を推奨する国々が陥る格差社会のもたらす負の部分、お金が「神」にとって変わった(劇中でもそのようなセリフあり)社会の歪んだ社会規範をどのようにしてキリスト教的価値観との折り合いをつけさせるのか。。。ある家庭内における教育、道徳理論では計り知れない現実が席巻していく世界を予見させるような、そんな社会の矛盾を「身近な家庭」の話として人々に突きつけているから、今の観客たちにも強く訴えかけるのだろう。

 

今回の「みんな我が子」の中でも、「なんでこんなことが?」と不思議に思うようなエピソードが出てくるのだが、

*なぜ主人公の工場経営者ジョー・ケラー(堤真一)の罪は暴かれなかったのか?

*長男クリス(森田剛)の恋人アン・ディーヴァー(西野七瀬)はなぜ自分の父親を騙した男の息子の嫁になることを受け入れるのか?

 

これらの理由の裏に絶対的なるパワー=金が見え隠れすることで納得がいく。

 

このコクーンの外国人の演出家を招いての上演シリーズの多くの作品に出演している堤真一は、この難しい役をリアルに演じている。

また、妻ケイト役の伊藤蘭も堂々たる演技で大いに存在感を発揮。嬉しい発見となったのがアン役の西野七瀬で戦後アメリカの若い、そして現実的な視野を持った賢い女の子を好演していた。

 

マッキントッシュのケラー家の玄関と壁、前の庭を表したセットが舞台全部を覆い尽くしていて、窓が少ししかないその家は要塞、もしくは刑務所のようだ。その閉塞感、そして圧迫感を持って、この家の大きな秘密を視覚で表している。