新国立劇場でアメリカ人劇作家ケネス・ローガンの2001年初演作品「ロビー・ヒーロー」を観た。

演出はKAKUTAの主宰者で劇作家、演出家、そして役者としてこのところ様々な場での躍進が目覚ましい桑原裕子が勤めている。

 

撮影:引地信彦

 

小川絵梨子芸術監督のアピールポイントとして確実にあがるのが1つ前の舞台「アンチポデス」、そしてこの「ロビー・ヒーロー」のように英語圏の現代戯曲の秀作を次々と上演できる点だろう。— 彼女が米国で演劇を学んだ経験から、英語が堪能で米国の演劇事情に精通ている上、留学時代に米国演劇にも数多く触れていることで早いスピードで英語圏の現代演劇の日本上演を実現できている。

言葉の壁から西洋圏内と比べ同時代の海外戯曲の上演が遅れがちである(昨今は他の商業劇場などでも迅速な海外戯曲の買い付け、上演がさらなる加速傾向にあるとは言え)日本では嬉しい傾向として、この新国立劇場の企画を受け止めることができるだろう。

 

タイトルから、そしてチラシのイラストや上記の舞台写真(左ジェフ:中村 蒼、ドーン:岡本 玲)からもわかるように、本作の主人公はマンションの夜勤警備員として働くジェフ(中村蒼)。彼と勤務中に出逢った人々、上司のウィリアム(板橋駿谷)、マンションのある地域の警察官ビル(瑞木健太郎)とその部下で見習いのドーン(岡本玲)との間で交わされる会話により、彼らのうまく行っていない日常、それぞれの悩みや、日常のマンネリ化を打破しようとしている心の内が明らかになってくるという流れになっている。

 

とは言え、今風に言えば「チャラ男」で明るい性格のジェフを中心にあくまでも劇のトーンは軽妙、笑わせる場面(ひょんなことから警官のイケナイ浮気事情がバレてしまったり、若い婦警のちょっとした野望計画もバレてしまったり)も多い。ーー>ここのあたりが演出を桑原に任せた所以か。

 

4人の登場人物のハブ(中心軸)的存在であるジェフを演じている中村蒼が素晴らしい。

翻訳(渡辺千鶴)の妙、そして演出の妙もあるのだろうが、中村の自然体で、それでいて人を惹きつける魅力ある人物作りが功を奏している。

 

2001年の初演(執筆は1999年とのこと)と言うことで、20年前の作品であるのだが、その内容があまりにも古めかしいのに純粋に驚く。セクハラ(女性警官に対するもの、そして一般的な女性軽視)、パワハラ(これも警察内の常識として語られている)、それもかなりあからさまなものがそのままセリフとして書かれていて、今の世の中だったらこの話自体が社会の規範外で「ダメでしょ、これ」となってしまう。

このハラスメントジョークをみんなで良しとして笑っていたのがつい20年前かと思うと、、、時代は確かに変わったなと感じる。

 

それこそ、我々の年代としては「そうそう、昔はこんな感じだったよね」で、昔のことの笑い話で済まされるかもしれないが、1980年前後に生まれた今の10代、20代の人たちはもちろんそんな「かつて」の状況は知らないわけで、この劇で描かれているハラスメントに「マジ、あり得ない」といった不快感を与えかねない。

 

事実、この劇を観た数日後にテレビで80年代の大ヒット映画、森田芳光監督、松田優作主演の「家族ゲーム」を観たのだが、主人公は家庭教師にボッコボッコにされていたし、教室では教師も含めて特定の女子に「ブス」だのバカだのと囃し立てるシーンもあるーーが、そこには陰湿性は全くなく、みんながそれぞれの個性を尊重しているようにも見える。。。と今ではあり得ない描写の連続だった。

 

(余談になるが、2000年代初頭に大流行したUKのコメディ「リトル・ブリテン」がキャラクター設定、その描写が不適切(移民系の人たちを誇張して、肌の色を塗ったりして演じていた)ということで、後に配信中止となり、製作者(コメディアン)が謝罪を表明する事態となったことを思い出した。その当時は多くの国民がみんなでテレビの前で大笑いしていた人気番組だったのだが、時代が変われば違った受け止め方をする人たちも出てくるであろうし、、もちろんそれに準じて、製作者側の意見も変わってくるのだろう。コメディ(笑い)に関しては、それでなくても微妙でセンシティブな部分があるので、判断が難しいところではあると思う。)

 

Z世代が世界の中心となりつつある現在、それこそZの次もスタンバっているのだろうし、芸術表現において、一言で「普遍的」だけでは測りきれない難しさがあると感じた。

 

ちなみに原作(アメリカ版)ではウィリアムはアフリカ系アメリカ人と設定されている。そうなると、彼の育った環境、それによる家族への影響などの背景がさらに見えてくることになり、彼の置かれている立場がより理解できるのだ。

また、新米婦警が置かれている立場についても米国の警察のマッチョな男社会という社会背景があれば、彼女が警戒する状況をより理解できる、という訳だ。

これらは海外戯曲を日本で上演する際に留意すべき文化の違いによる欠落。