パルコプロデュースの「三十郎大活劇」を新国立劇場中劇場で観た。

 

昭和初期の日本映画の過渡期

—無声映画からトーキー映画への変換、それにより職を失った弁士たちがストライキ、また映画が文化の中心でスターを据えてシリーズ化した作品が量産されたこと。そして戦争色が濃くなり、様々な統制が敷かれ上層部の意に沿わない映画、俳優は活躍の場を剥奪されたこと。そしてこの頃にのちの日本映画界を牽引する監督たち、黒澤明、小津安二郎らが台頭してきたこと—

などが描かれている。

 

戦争や災害などの国難にも負けじと芸術を愛し、追求する映画人たちという思いが込められているのだが、、、毎日ウクライナの惨状を目にする中でいくらなんでも今はこのメッセージは「タイミングが悪すぎて、ちょっと笑えない」だろう —命を投げ打って映画を撮るって。。。ちょっと不謹慎にも思える、、なぜなら「今」戦争で命を落としている民衆がいるので— と思っていたところ、、プログラムによるとどうやらこの戯曲はこんな状況であるもっと前、バブル真っ只中の1994年に書かれた(鈴木聡)ものだということが発覚。なるほど、その当時は第三次世界大戦なんて全く現実味がなく、(悪)夢物語だったのだろうなと感じた。

 

その初演時には青山円形劇場(懐かし〜〜〜い)で上演されたと(初演時は鈴木が演出も担当したが、今回はラサール石井の演出)のことだが、今回はかなり大きくなって新国立劇場の中劇場。

 

その中劇場と言えば、舞台の奥行きが深いのが特徴で、それを積極的に利用した傑作舞台、

耳男(堤真一)がそのなが〜〜い桜並木を駆け抜けるシーンにその思いの丈を感じた野田秀樹の「贋作・桜の森の満開の下」

(c)谷古宇正彦

 

そして、舞台前方も張り出して、広大な英国平野の戦場を実現させた新国立劇場の歴史に燦然と輝く名作、シェイクスピア歴史劇シリーズ

 

新国立劇場

 

を生み出しているのだが、今回はその奥行きを二分割し、主にストーリーが展開される舞台前方の演技スペース、そして紗幕を挟んでその後ろをもう一つの世界、例えば映画のスクリーンの中の世界であったり、想像される別の場所の出来事を幕を通して垣間見ることができる役者によるライブのプロジェクションマッピングのような効果を生んでいた。また、幕開けにはその奥行きを活かし、作品の主人公である銀幕のスター紅三十郎(青柳翔)が自転車で疾走しながら登場する=スター誕生のシーンを印象づけた。

 

また、その紗幕の両側にはフィルムのコマのようなデザイン(美術:石原敬)で櫓のような高さのあるセットを設置、そのフィルムのコマ部分を開けたり閉めたりすることで、主だったセットの変換をすることなく、多彩な場面を瞬時に登場させていた。

 

三十郎の先輩であるサイレント映画のスター坂東春之介を演じた近藤公園のメリハリの効いた演技が良い。またどの舞台でも必ず爪痕を残す新劇の大女優、杉浦美輪子役の那須佐代子、そしてアリスに登場するトゥイードル・ダムとトゥイードル・ディーのように声まで共鳴しているの映画のベテラン監督とカメラマン役の三上一郎と若松武、その真ん中でいつも難題を突きつけられ困惑しているプロデューサー役の福本伸一のトリオも舞台を引き締めている。

 

その中で、絶対的スターを演じている青柳翔、体格が良くて目鼻立ちのハッキリとしたどこにいてもオーラを感じる佇まいが役にハマっていた。