(c)宮川舞子

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文学座アトリエ公演、ハロルド・ピンター6作品一気上演、「Hello」を観た。演出は文学座、的場考起。

 

2時間弱の上演時間で6作品なので、中には数分で終わる超短編も。

 

ーちなみに6編は以下の通り、「家族の声」「ヴィクトリア駅」「丁度それだけ」「景気づけに一杯」「山の言葉」「灰から灰へ」

 

ノーベル文学賞を受賞している英国人の劇作家ということで、その名を知る人は多いと思うが、たとえ演劇通であったとしても、実際にピンター劇を観たことがある人はその知名度にしてはそれほど多くはないだろう。

 

その意味からも、まずはこの企画自体が賞賛に値するということ。ハロルド・ピンターの劇をこれだけまとめて観られるのは貴重だ。

 

そこで疑問に感じるのが、ノーベル賞作家の作品が日本で上演されることが少ないのはなぜか、ということ。

今回の舞台を観劇した人、また過去にピンター作品を観た人ならわかると思うのだが、、それはひとえにわかりにくいから。やっている方も、観ている方もいわゆる演劇効果の一つである「カタルシス」を味わうことなく、なんなら、さらにモヤモヤしたままで劇場から帰途に着くことになるからだろう。

 

実際、ピンターが劇作家としてデビューした当初はリアリズム演劇の本場である英国では「わからない、なんだこの劇は?」と不評だったそうで、デビュー作「バースデー・パーティー」(1958年)もこき下ろされたらしい〜今では傑作として人気の演目だが。

 

ロンドンを訪れた際にピンター劇がかかっていると長時間の作品があまりないこともあって、隙間時間を見つけては観に行っているのだが、2018年にウェストエンドのHarold Pinter Theatreで上演された「The Birthday Party」も主役のToby Jonesの好演もあって、大いに楽しんで観た。客席も観客の笑い声で溢れていたのを思い出す。

 

英国人の彼らにはおかしくて仕方がないようなのだが、どうもそこらあたりが日本の舞台ではうまく出てこないようなのだ。

 

確かに、今回の文学座の公演でも客席はピンターの世界を掴みとろうという人たちで良い感じで集中している感じは伝わってきたが、”笑い”までは昇華されていなかった。

英国人のちょっとひねくれたシニカルな人間を見る目、と日本人のみんなで顔をみあいながら笑いあう、、そんな感覚の違いなのか?

不条理である自分たちを「そうなんだよね、人間って結局はアホな生き物なのよ」、、、と認めることができるかどうか、、、。日本国内でも海外でも、ピンター劇がかかっていたら、やっぱりチケットを買ってしまうだろう。

まだまだわからないことだらけなのだが。