渋谷PARCO劇場でダーク・ファンタジー「首切り王子と愚かな女」を観た。

 

蓬莱竜太の作・演出で、PRイメージイラストにあるようにタイトルロールの王子と女を井上芳雄と伊藤沙莉が演じている。そのほかには女の姉で彼女と対立する王子が住む城の騎士団長を演じる太田緑ロランス、同じく騎士団にいる秘密を抱えた騎士の高橋努、王子の母親で現女王を若村麻由美が顔を連ねている。

 

まず演出面から。ファンタジーでありながらとてもリアルな稽古場を模したセットの中で劇は進行していく。舞台エリアには実際のセットが組み上がる前に仮で使われているかのような箱型が積み重ねられ、その様々な形の箱を動かしながらそれぞれの場面、首切りの断頭場であったり、王子の部屋出会ったり、もう一人の昏睡状態の王子(井上が思い出の中という設定で演じている)が訪れた海岸であったりの場所が観客の想像の眼を通して、シーンごとに作られていく。そのエリアを取り囲むように役者ごとの個別のテーブルが仕切板をつけた形で設置されている。

このシンプルで反ファンタジーなセット、演出は斬新!ファンタジーな世界を身近な距離にまで近づける意味でも◎。

 

一方でその内容に関して、

現代劇なので、小さな王国の中心にいる愛に迷った人たち—母親は2人の息子への偏った愛に、王子と女は自らへ向けた愛と他の人たち、またはパートナーへの愛に、さらに登場人物のそれぞれがそれぞれの愛に—を我々(現在)の日常へ近づけ、ファンタジーの中に込められた我々へのメッセージを読み取ってもらおうという意図は良くわかるのだが、その引き寄せ方がちょっと度を越してしまったように思えてならない。そのアンバランスが逆に劇の世界を我々から遠ざけてしまったように感じた。

 

初日前のプレス会見で、蓬莱氏が"主役の二人のキャラクターというのがまずあって"、彼らに演じてもらいたいキャラクターをイメージして書いたという旨のコメントをしていたのだが、その部分の引き寄せ加減もバランスを欠いてしまった原因のようで、役がまずあっての俳優ではなく、俳優がいてそこに話をのせているがゆえ、肝心のストーリーの部分に確信が持てなくなってしまっていた。

 

例えば、今回は小国とは言え、昔のどこかの王国で起きた話であるのだが、まずは「愚かな女」の無礼な物言いと態度は、あり得ないのではないか。あの調子では開幕の5分後には首を切られ、もしくは投獄されて二度とその姿をみせなくなっているはずだ。他の登場人物が馬鹿丁寧に話している傍で、あの子だけが「うっせえわ」ではないが、現代語で会話をしているのにも違和感を覚えた。また女王の心の闇=病の裏付け部分も、もう少し深掘りしてもらえれば、息子との関係性も際立ったかも。

 

ファンタジー結構、ダーク・ファンタジーも世の中の本音を暴くという意味で大いに結構。

しかしながら、ファンタジーだからと言って、なんでもアリな訳ではなく、人(観客)をその気にさせる(話に納得させる)だけのリアル、理由づけがなくては、その想像の世界までは一緒についていけないかも。