日本統治下の台湾で育ち、その後日本へ戻り女流作家となった真杉静枝の生涯を描いた劇、Pカンパニーの「花樟(かしょうー(楠木の一種))の女」を座・高円寺で観た。

戯曲は石原燃、演出は小笠原響、主演は松本紀保。

 

自身が20歳ぐらいまで生まれ育った台湾を題材とした作品を多く執筆し、他にも自身で文芸雑誌を発行したり、原爆被害にあった被曝少女たちのための慈善事業を熱心に行ったり、と今で言うところのバリバリに出来る女、キャリアウーマンであるのだが、世間一般の評判は彼女の多くの恋愛遍歴から(武者小路実篤の愛人であったことは有名)「恋多き女」「上昇思考が強い欲深い女」とスキャンダラスなものばかりが前面に出てきて、彼女のイメージを形作っている。

(林真理子が彼女の人生を記した小説「女文士」を書いているので、そちらも参照されたし。)

 

樋口一葉が若くして一家の稼ぎ頭となったため身を粉にして働いたように、真杉も、戦後、台湾から日本へ引き上げてきた家族、特に妹のため身体を悪くするまで仕事を受け続け、さらに海外までも出向いての慈善事業、と日々奔走したためか身体を壊し肺結核で亡くなっている。

 

観ながら思ったことは、彼女の人生のいたるところで「女」とわざわざ冠がついてしまうことの不幸。

 

昨今のキーワードであるDiversity(多様性)、そして差別(区別)のない社会の観点からすると、なんとも理不尽な時代—いやいやその女性蔑視の社会構造は未だ全く変わっていないのだが—を生きたが為に、とんだ濡れ衣を着せられたままになってしまっているなという感想だ。真杉の場合それに加え、台湾育ちということで、その点での差別も受けたようだ。

 

男の場合、恋愛で心中未遂事件を起こしても、多くの女性と浮き名を流しても、時にモテ男としての勲章となったりする。また上昇思考のある、そしてそれを実行している男などは憧れの存在であったりする。

が、それが一転、バイタリティーと才能のあるその人が女であった瞬間に、反対方向のネガティブな評価が付いてくるというわけだ。

 

女らしからぬ、、というのはどうやら褒め言葉ではなく、揶揄した言葉のようだ。

 

でも、男女の間の事ですから犬も食わないのは大前提ですが、真杉が男たちに愛想を尽かして—例えば、武者小路の頭では家族は別物で、彼女をあくまでも愛人としてとしか扱っていなかったようだし—、その結果、次の恋愛に走るののどこがいけないのか、さっぱりわかりましぇ〜ん。

 

でもって、今って2021年何ですけど〜〜〜。女とか男とか、、肌の色がどうだとか(なんだかロイヤルファミリー関連のスキャンダルも物議を醸していますが。ま、それに関しては彼女は自らがお役目を放り出して自由になりたいと言って離れたのだから、もう自分の生活を静かに送って欲しいと思いますが、、、みんなで彼女のことはすっかり忘れてあげて取り上げないようにしましょう。黙っていないとは思うけど。)、国籍や性的指向がどうだとか、どこかを攻撃する姿勢はそのままブーメランで戻って来ますよ。なぜならそのように差別する事自体が理不尽でその行動に根拠のない事なんですから。

 

おそらく小説化した林真理子自身が真杉と同じような、理不尽な女+レッテルを貼られ続けてきたんだろうなと想像する。

 

先日、オリンピック関連の女性蔑視発言がトップニュースとなっていたが、この劇を観ながら、つくづく今のこの国の姿勢も戦前からずっと変わっていないな、と思った。