この方の事も早く訪ねたいと思いながら、今頃になりました。

福沢桃介は電力王と言われていることだけは存じていましたが

数年前岐阜の方に旅し木曽川沿いを走っている時、随分この

方の名前を目にしました。

そこで生い立ちなどを少し調べましたら、意外な事が分かって

是非訪ねなくてはと思っていたのです。


 

出生から福沢姓になるまで

福澤桃介、旧名岩崎桃介は、慶應4625日(明治元年、

新暦:1868813日)、武蔵国横見郡荒子村・現在の

埼玉県比企郡吉見町荒子に生まれた。

父は岩崎紀一、母はサダ。桃介は男女各3人の6人兄弟の

次男であった。 父の紀一は北足立郡原市町(現・上尾市)

の名主の家の出身で、岩崎の本家も代々名主を務める家柄で

あったが、紀一が婿養子に入ったサダの家(桃介の生家)は

末端の分家で、少しの土地を持つのみの水呑百姓であった。

農業だけでは生活できないため生家は荒子村で雑貨や荒物を

扱う商いも手がけていたが桃介と2人の妹が生まれたところで

川越町(現・川越市)に移り住み、ここで提灯屋を開業する。


記述は全くネットの受け売りですが、生誕の地、吉見町荒子には

縁の碑がありますので訪ねました。




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ここですか~誕生の地は。知りませんでしたねぇ~。

この道は東松山方面に行くとき何度か通っているのに

全然気が付きませんでした。


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桃介は川越の小学校へ通うようになったが、貧乏で下駄を

買うのも大変なので裸足で小学校へ通学したということですが

成績は非常に優秀であったということです。

1878年(明治11年)川越に第八十五国立銀行が設立されると、

父紀一が提灯屋を廃業して同銀行に勤めるようになり

家計はやや楽になった。

それから川越中学へ進み、中学校を出ると、政治家を志し上京し

福澤諭吉が開いている「慶應義塾」へと入学した。


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岩崎桃介が通う慶應義塾では、しばしば運動会が開かれ、評判を

集めていた。桃介は駆け足が得意であったという。この運動会は

福澤諭吉も妻や娘を連れて見物しており、学生の運動振りを

見ながら娘の婿選びの機会になっていると噂されていた。その

運動会で桃介の姿が諭吉の妻・錦の目に留まる。長女里の賛同も

あって諭吉も乗気になり、桃介は房の結婚相手に抜擢された。


福澤家側は卒業後の洋行(留学)費用を出すという条件で桃介を

婿養子に誘い、桃介の側もこれを承諾し養子入りが決定した。


 留学より帰国後は上図案内板にあるように実業家として活躍します。


 もう一か所福沢桃介碑がこの県道33号線より市野川堤防付近に

入ったところにありますので訪ねてみます。


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県道33号線 


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33号線から入って来た道・振り返って撮影


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ナビに導かれて右折すると大きな石碑がありました。
左・馬頭観世音碑   右・聖徳皇太子碑

左後方の建物が荒子下公民館


荒子下公民館と

道を隔てた墓地の一角にその碑はありました。

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電力王 福沢桃介生誕地の碑

住所 埼玉県比企郡吉見町荒子695


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市野川の堤防の草が青々としていて綺麗ですね。

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長閑な風景が多く残っていますが

ここ、比企郡吉見町は古い時代の歴史には横渟(よこぬ)屯倉

として登場する土地柄です。(武蔵国造の乱)


鎌倉時代に描かれた絵巻物・『男衾(おぶすま)三郎絵詞』は

吉見二郎、男衾三郎兄弟のお話ですが、ここ吉見町は

兄・吉見二郎の出身地とされています。

弟・男衾三郎の出身地・男衾は大里郡寄居町にあった地名で

どちらも武蔵国の地名が人物名に付されています。


 

撮影:2018.10.20

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