もう先々月の事になりました。

 

 

密かに(笑)敬愛しております 、FMcocolo DJ キヨミさんの番組  " Billboard PREMIUM PLUS "  

 

2017 3/24 on air  のゲストは、熱帯JAZZ楽団のカルロス菅野さん。

 

その時に耳にしたのが、デイブ・バレンティンさんの死でした。




プエルトリカンの子供として1952年4月、ニューヨークのサウス・ブロンクスで生まれる。13歳でフルートを始めた60年代、ニューヨークはプエルトリコ移民によるサルサ・ムーブメントの勃興期にあった。そんな中、デイブ少年は既に10代半ばにして、ニューヨーク・サルサの総元締めだったファニア・オールスターズで演奏していた早熟児であった。後にGRP専属アーティストとなってからも、コンフント・リブレや、ソン・プリメーロといった、サルサやキューバのチャランガを演奏するグループに加わって活動して来た。






デイブがこの『レジェンズ』でデビューした1978年は、折りしもフュージョン・ムーブメントが真っ赤に燃え上がっていた時代。そんな中、デイブの音楽はラテン・フュージョンのブランドと見られていた。

しかし、JAZZ系のミュージシャンが、主にリズム面の新機軸を求めて、ラテンやブラジルのリズムに接近した結果としてのラテン・フュージョンと、デイブの音楽との間には明らかな違いがある。

民族的にも世代的にもデイブには、サルサもJAZZも区別なく親しむ皮膚感覚といったものが身についていた。本人が意識するしないにかかわらず、最初っからフュージョン・マインドの持ち主だったのである。


ー 中原 仁さんのライナーノーツより



大学二年頃になると、クラシック以外の音楽に興味を持ち始めます。随分と色々なジャンルの曲を聴いていました。JAZZ、サンバにボサノバ。そして日本のユーミンなど。しかし残念ながら、フルートを専門に演奏するアーティストは少なかったですね。例えば、ハービー・マンやヒューバート・ローズ。そして、ジェレミー・スタイグなどです。


そんな時、ある晩にFMラジオから流れて来た軽やかな音色は、今まで聴いてきたフルーティストとは全く異なっていたのです。


さらに、JAZZのフレーズとは全く違うリズム中心のアドリブ。それは、他のどのフルーティストよりも、当時たいへん流行ったフュージョンにマッチしていたのです。その人の名は " デイブ・バレンティン " 。1978年にデイブ・グルーシンとラリー・ルーゼンが発足させたGRPレコードより『伝説』を発表してデビューします。


アドリブを何とか会得したいと思っていた学生時代、フルーティストだと " エリック・ドルフィー " が一番人気でした。でもそれは、今でこそ大好きな演奏ではあるけれど、JAZZ初心者の私にとっては難し過ぎて理解できなかったのです。


そのとき私は学生寮のベッドの中。もう眠る態勢になっていましたが、すぐさま飛び起きてカラのテープを探しました。曲の頭は欠けてしまったけれど、二曲ぐらいは何とか録音できて、JAZZのコピーそっちのけでバレンティン研究に没頭します。


JAZZの場合だと和音の中から、わざわざ音を外してフレーズを作り(アウトコード)、これにも色々な決まり事があって難しい訳なのですが、バレンティンはアウトコードをしないので、フレーズ自体はコピーし易く、難しくは無いのです。


ところがテープを聴きながら一緒に演奏してみると、リズムの乗りが上手くいかず難しいのですね。つまり、フレーズよりもリズムを重視している事が良く分かるんですね。そして分かり易いフレーズの音列は、サルサなどのラテン音楽に独特のものだという事が、だいぶ後になって、自分自身でラテンを始めた時に思い知ったのです。
 



1990年の5月末頃から6月の頭にかけて、東京は青山にあるブルーノートでデイブ・バレンティンのライブが行われました。

ライブ最終日のステージ後半、デイヴの手招きに応じて、今年メジャーデビューを果たした日本のサルサグループ " オルケスタ・デ・ラ・ルス " の人達がステージに上がって行きました。

その中にはカルロス菅野さんもいたので、私もフルートを出してデイヴの前に行くと、一緒に吹こうとステージの真ん中に引っ張り出されてしまい … 私は雨降る六月のこの夜の出来事を、一生忘れる事は無いでしょう。

ー 赤木りえ / 私の好きなフルーティスト達 より

 

 

 

 

 

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