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私にとっての罪人は?

前に少し書いた事だけど、人は自分の嫌と感じる事を相手にしないだけで、相手が嫌な事を自分にしない契約を勝手に交わした事と妄想している。



小さい頃から親や学校などで、自分の嫌がる事を相手にしない!って、教わった影響だと思える。




なので、ウソが嫌で自分は正直者で通した時に、相手がウソをつくと、ウソをつくなぁ!と怒る。




自分の場合は、スジが通らない無責任な発言が嫌いなので、責任感を持って、吐いたツバは飲まない!



そして、無責任な相手に対して、

おいおい!
どうした?
前に何て言ったんだ?!

と怒る。



まあ、途中で、責任なんて幻想だったって解ったんだけど。

・・・自分に対して、その自分勝手なルールで縛ったままなのを忘れてた^_^;




誰かを自分のルールで縛ったと同時に、同じルールで自分の心を縛ってしまうんだね。

orz



自分が誰かを縛ったルールを見直したら、自分の心を自由にする事にも繋がるんだね。

自分の人生を

自分の心が窮屈で、感情などの感覚を失ったことに気付いた時には、自分の心を感じなくなっていた。



頭で考え過ぎて、心を封じ過ぎてしまっていた。




自分なりのリハビリで、心のままに生きる感覚を取り戻したが、心を優先していくなかでは、ツライ現実はある。



心を優先しても、本能が満たされない。



「こんな事をしても誰も認めてくれる訳じゃない」


「人に騙されているのを知っていながら、自分が損をしても、身体は動く」



「評価なんてされない。むしろ悪口が出回るかもしれない。」



と葛藤していくと、悲しくなり、心を責めてしましそうになる。




でも、ココで心を捨てたら。


自分じゃなくなる。



自分である事で、恵まれる事もある。



自分である事で、恵まれない事もある。




結果がどうあれ、自分である事は捨てられないし、自分では無い事をして後悔するつもりもない。




これが自分なら、恵まれる事も、恵まれない事も、自分を愛して、自分を受け入れよう。

見栄と承認欲求

自分で自分を認めていない時には、誰かから認められる事を望む。


自分にも同じような経験はあった。



仕事を任せて貰えなかったり、小さいころは親に認めて欲しかった事もあった。



仕事も任されすぎると、俺にばっかり負担をかけないで^_^;

と、自分を認められたら逆にウンザリする事もある。



ウンザリした時には、自分で思う、自分よりも大きく承認があり、承認欲求をそれ以上の求めたりしなくなる。



会社の中で、自分では対応しない事を簡単に引き受ける人達がいて、見栄をはりたいという事は簡単に解った。



引き受ける事がカッコいいと勘違いしているようだ。


でも、自分では出来ないから、必死に人に押し付けて、依頼主に完了の連絡をしている。


依頼が集まってくると、「頼りにされている」と、実際の自分よりも、自分を大きく評価して、承認欲求に酔っていく。



簡単に言えば、自分のお金では買えない物を人のお金で買ってあげて満足している。



依頼主からは「(都合の)良い人」と評価される。



その「都合の良い人」をどう思うかは自己承認の有無で変わる。



自分承認が無ければ、承認欲求が欲しくて、都合の良い人になりたがり、それが病気のようにエスカレートしていく。


まさに見栄の世界で、自分で自分を認める事から遥かに遠ざかっていく。



限界もない。




自己承認があれば、承認欲求を満たして、都合の良い人には成りたがらない。


常に満たられているからだ。



誰かを助けたいのは、満たされない欲求に振り回されて、自分で認めていない自分を誰かに自分を認めて欲しいから?


それとも、自分で自分を認めて、満たして、どう思われても構わないけど、溢れ出た慈悲から?




それは、回を重ねる度に、本当の意味で


自分の信頼を損ない続けていくか?



自分を信頼して、実際に大きくしていかるか?


反対にのびていく。