裁かれる事が怖い
人の世で生きると「人の法」に縛られる。
小さく分別がつかない頃から、良い事や悪い事と教えこまれた。
解ったのは、
「誰もが自由で、ありのままの自分でありたい。」
そして、
「誰もが裁かれる事を恐れている。」
前は自分が裁かれる度に、裁かれるままに自分を裁いてきた。
今は、誰かに裁かれてても、自分では自分を裁かない。
それは、相手の「裁き」と言われた事を「正しい」と思ってきたから。
当然ながら、相手にとっても「裁き」と言った事を「正しい」と思っている。
自分を裁いてきた親・教師・先輩などの人達を恨む気持ちも自分の中にある。
「騙しやがって!」と「逆らえない相手に対して」という思いがある。
自分をもう分離したくない。
仕事場では「裁き」に満ち溢れている。
そして、クビになったりするかもしれない。
今の職場を離れて、転職先を探しても必ず「人(上司)の法」による裁きから逃げられない。
でも・・・従わなくても生きられるなら、そんな「法」には従わない。
ぶっちゃけ、安定した給料にこだわらなければ・・・裁きを受けなくても良いかもしれない。
小さく分別がつかない頃から、良い事や悪い事と教えこまれた。
解ったのは、
「誰もが自由で、ありのままの自分でありたい。」
そして、
「誰もが裁かれる事を恐れている。」
前は自分が裁かれる度に、裁かれるままに自分を裁いてきた。
今は、誰かに裁かれてても、自分では自分を裁かない。
それは、相手の「裁き」と言われた事を「正しい」と思ってきたから。
当然ながら、相手にとっても「裁き」と言った事を「正しい」と思っている。
自分を裁いてきた親・教師・先輩などの人達を恨む気持ちも自分の中にある。
「騙しやがって!」と「逆らえない相手に対して」という思いがある。
自分をもう分離したくない。
仕事場では「裁き」に満ち溢れている。
そして、クビになったりするかもしれない。
今の職場を離れて、転職先を探しても必ず「人(上司)の法」による裁きから逃げられない。
でも・・・従わなくても生きられるなら、そんな「法」には従わない。
ぶっちゃけ、安定した給料にこだわらなければ・・・裁きを受けなくても良いかもしれない。
協調性と目線の数を合わせる事
サービスマン時代に感じたのは、本当に怖い客は「クレームの多い客」よりも「不満があっても言わずに離れていく客」だと解った。
客には、不満を伝え無ければならない義務は無い。
昔の上司は、自分の上司に対して「上司に気を使うなら、部下に対して2倍の気を使え」と言った。
「自分の目線の先には物事の全ては見えない」「ごく一部しか見えていない」と悟ると、物事の判断に悩む。
判断は出来ないのは解っていても、仕事上では判断を求められる。
「上善水の如し」を悟っている上司は部下に対して「私よりも詳しい貴方の話を聞きたい」と言ってくれた。
職場でも現場と本部の意見で揉めてしまうのは、互いに見えている角度が違うから・・・
互いに「正しい」といえて「間違えている」と言える。
自分の見えている物事が「正しい」と誤解している上司には、部下に対して「上司から見えて」いる「正しい」を押し付ける。
特に「基本」という、あまりに曖昧な幻想にとりつかれている上司には難しい。
部下が訴えても上司に聞く耳が無ければ不満は募り、「何をしても解って貰えない」「上司の見えているものがわからない」と判断すると職場を去っていく。
そして職場を去っていく部下にも上司に不満を伝え無ければならない義務は無い。
その上司が変わらないと、客が離れるように部下も繰り返し去っていく。
自分も部下を持つ上司となり、部下の目線も持って、自分の目線を伝えると、互いに1人でも2人以上の目線を持てる。
そして互いに持った2人以上の目線で物事を解り合える。
同僚同士でも、人の数だけ目線は変わる。
「自分の目線の方が正しい」と判断する人は、相手に対して批判・攻撃的な言葉で「◯◯しなよ!」と言っている。
互いに不仲になって当たり前だ。
互いの目線で見ようとする人は「どうして◯◯してるの?」と穏やかに相手の目線を知ろうとする口調で歩み寄り、相手の目線を踏まえて自分の目線も含めた提案をする事ができる。
これは上司・部下、親・子、夫婦、恋人、同僚、友人、外交など・・・と全てに通じて関係を変えて、絆を深めて、同じ目線を持って、同じ目的に向かう事ができる。
目線が増えると、今まで見えなかった事がイッパイ見えてきて、気付きも増えて、物事の全体像が少しずつでも明らかになってくる。
そこに見えるものの中には光も含まれていると思える。
客には、不満を伝え無ければならない義務は無い。
昔の上司は、自分の上司に対して「上司に気を使うなら、部下に対して2倍の気を使え」と言った。
「自分の目線の先には物事の全ては見えない」「ごく一部しか見えていない」と悟ると、物事の判断に悩む。
判断は出来ないのは解っていても、仕事上では判断を求められる。
「上善水の如し」を悟っている上司は部下に対して「私よりも詳しい貴方の話を聞きたい」と言ってくれた。
職場でも現場と本部の意見で揉めてしまうのは、互いに見えている角度が違うから・・・
互いに「正しい」といえて「間違えている」と言える。
自分の見えている物事が「正しい」と誤解している上司には、部下に対して「上司から見えて」いる「正しい」を押し付ける。
特に「基本」という、あまりに曖昧な幻想にとりつかれている上司には難しい。
部下が訴えても上司に聞く耳が無ければ不満は募り、「何をしても解って貰えない」「上司の見えているものがわからない」と判断すると職場を去っていく。
そして職場を去っていく部下にも上司に不満を伝え無ければならない義務は無い。
その上司が変わらないと、客が離れるように部下も繰り返し去っていく。
自分も部下を持つ上司となり、部下の目線も持って、自分の目線を伝えると、互いに1人でも2人以上の目線を持てる。
そして互いに持った2人以上の目線で物事を解り合える。
同僚同士でも、人の数だけ目線は変わる。
「自分の目線の方が正しい」と判断する人は、相手に対して批判・攻撃的な言葉で「◯◯しなよ!」と言っている。
互いに不仲になって当たり前だ。
互いの目線で見ようとする人は「どうして◯◯してるの?」と穏やかに相手の目線を知ろうとする口調で歩み寄り、相手の目線を踏まえて自分の目線も含めた提案をする事ができる。
これは上司・部下、親・子、夫婦、恋人、同僚、友人、外交など・・・と全てに通じて関係を変えて、絆を深めて、同じ目線を持って、同じ目的に向かう事ができる。
目線が増えると、今まで見えなかった事がイッパイ見えてきて、気付きも増えて、物事の全体像が少しずつでも明らかになってくる。
そこに見えるものの中には光も含まれていると思える。
続・現代社会で人を判断しているのは
今、判断している人が未熟な人であった場合には、優れた人を「優れている」と判断出来ないだろう。
そもそも、二元だし、「判断できる」と誤解している事が未熟なのは別として
未熟な人の物差しでは、「自分が優れている」と錯覚してるから、自分が劣っているか?相手が優れているか?という事すら分からないだろう。
誰かと比較しても、周囲に天才が揃っていたら、平均点もあてにならない。
学校で教えているのは、真理でも無い。
人の評価はアテにならない。
「私って、どんな人」と聞いても、自分よりも、自分の事を知る他人のセリフは、「(その人が観てきた)誰かと比較した貴方」でしかないからアテにならない。
誰かに何かを言われても、真実として受け入れるだけの価値は無い。
だから、自分の事は自分が見つめて、一番理解していかないと本当に自信なんて持てないと思う。
そもそも、二元だし、「判断できる」と誤解している事が未熟なのは別として
未熟な人の物差しでは、「自分が優れている」と錯覚してるから、自分が劣っているか?相手が優れているか?という事すら分からないだろう。
誰かと比較しても、周囲に天才が揃っていたら、平均点もあてにならない。
学校で教えているのは、真理でも無い。
人の評価はアテにならない。
「私って、どんな人」と聞いても、自分よりも、自分の事を知る他人のセリフは、「(その人が観てきた)誰かと比較した貴方」でしかないからアテにならない。
誰かに何かを言われても、真実として受け入れるだけの価値は無い。
だから、自分の事は自分が見つめて、一番理解していかないと本当に自信なんて持てないと思う。