そこから直ぐに渡場の跡。当時の様子をどれほど再現したものか知らない。関所っぽいものはみられるが。
ここで『渡場』がどういうものかをより具体的にしる。どうやら街道を管理したい人にとっては橋はないほうが都合がよかったようで。
あえて橋を作らないことでいろいろなメリットが存在していたとあり。草津宿にも似たものはあったがこちらのほうが川としてより難所だったのでそのぶん重要性も高かったのかもしれない。
水口宿はそんな渡場のすぐそばに。
ここから水口宿の中心地に向かってあるくと、写真じゃわかりづらいが数キロに及び道がまっすぐにのびているのが嫌でもわかる。歩いているので。
ここまですでに歩いてきているからこういう道を歩いていると途方ない感じが。これも水口宿の特徴のひとなのかも。実際にこんな説明書きが道端にある。
あちらこちらに水路があってのぞけばかなり綺麗な水が結構な勢いでながれる。平地なのにちょっと不思議。
ひたすらまっすぐにあるいて、そろそろ中心地に近いた頃、道端の光景が、おおよそ農地→民家→商店まじりにかわったかなというほどで、今度は東海道が交差点を境に大きく曲がる。
これも水口宿の特徴のひとつ。
もともとここは宿場町であると同時に城下町であって、豊臣方から徳川方に政権が移った影響から城の移動、作りかえがあり、その都合でこんな曲がりくねった東海道になったそう。
それを示す地図。
さらに案内板。
宿場内を通る東海道の東西両側には見附なるものが存在。それぞれ西側が『京口』で東側が『東口』と呼ばれていたそう。
また東海道に関する知識がちょっとふえる。
より水口宿について詳しくしりたければ観光案内所&資料館のような施設も存在。
水口名産の『かんぴょう』の絵もあり。
そして、そろそろ水口宿の中心部かなというとこで次は道が三叉路わかれる。これもまた水口宿らしい特徴のよう。
なぜ三叉路にわかれたのか詳細にそれほど詳しくないものの、やはりここがもともと城下町で、町を新たに作る際、東海道を中心に両サイドに2つ道を設けた頃の名残りらしい。
今でも石部と比べあちらこちらに商店があり、もと宿場町として観光地化されているような建物もいくつか、わりと賑やかな感じがする。
ただ、あまり時間に余裕はなく足早に見てまわり、宿場町の出口付近で三叉路は再び合流。ちょうどそのあたりにより昔の造りが残った建物が数件、本陣跡など。
最後に出口に相当するようや東見附、江戸口を見る。
ここを超えると次は土山宿、鈴鹿峠が目前の位置まで。