雪の永い別れ<第7章>俺たちが生まれてくる理由
久しぶりにまたつくしんぼの食事会が開かれた。今回も話題の中心は、花村の恋話だ。
「あのさ」と言って花村は話し始めた。「俺、訪看の阿由葉さんのことどうするか賭けに出たんだ。この前の阪神対オリックスの日本シリーズの第7戦でオリックスが5-1でリードした7回、この試合で阪神が逆転勝ちしたら、俺にもまだ可能性がある、負けたらない、そう賭けたんだ」
花村は熱狂的な阪神ファンだ。そうしてみんなに宣言することでまた揺れ動きそうになる恋の感情に終止符を打とうとしていた。
「グループホームでの生活はどう? 順調?」
今までつくしんぼの食事会に参加していなかった小田今日子が花村に訊いた。
「うん。食事は美味しいし、世話人さんはやさしいし、でも、阿由葉さんが……」
また場の雰囲気が暗くなりそうになったので、
「みんな、何か食べようよ」
と今日子が再び話をそらした。
10時に待ち合わせて入店し、ドリンクバーだけでもう2時間が経過していた。
「そうだね」
と花村の一番の親友である村井が賛成した。
そうして食事を注文し、運ばれてくる間、良介はできるだけ恋愛とはかけ離れた話題を探した。が、しかし、どんな話題も花村の恋愛話につながってしまう。しかしその時村井が、
「来週、僕競馬を見に行くんですよ」
と満面の笑みで言った。
やっと明るいほうに話題が変わったと、良介は小さく安堵した。
「でもお金は賭けないんですけどね。それに来月は東京ドームに巨人阪神戦を見に行こうと思って……」
「いや、それより」良介が野球の話が花村の恋愛話につながると直感して話を遮った。「来月のつくしんぼの日帰り旅行楽しみだなあ、俺……そういえば花村さん絵のほうはいかがですか?」
「ダメです。阿由葉さんのことばかり描いてしまって……」
やば! 良介は今度は大きいな不安を感じた。
「でも、実は僕、もうひとり気になってる人がいるんです」
と花村が意外なことを言いだした。
良介は自分の失敗をすこぶる自然に思い出した。そうして言った。
「花村さん、もう誰でもよくなってませんか?」
「そうです。僕それくらい淋しいんです。永澤さん」
良介の背中に嫌な予感が走った。
「永澤さんは奥さんと週に何回セックスされますか?」
「そんなこと答えられるわけないでしょう‼」とは言わず正直に、「ほぼ毎日です」とも答えなかった良介。
なぜなら良介の妻・雪は失明し、入院している。だから良介は花村の質問をごまかそうと、
「気になってるもうひとり、ってどこの誰ですか?」
と問うてしまった。
「僕がつくしんぼに来る前に通所していたデイケアにいた倉田直子さんていうきれいなひとです。僕がデイケアに行くようになって半年ほどあとに来るようになった子なんですけど、元アパレル関係の仕事をしていたそうなんですが、化粧もいいし、髪型もいいし、ファッションのセンスもいいし、それに何より僕の欲望を刺激するんです。でもそこのデイケアは利用者同士で仲良くなっちゃダメで、連絡先の交換も禁止されてたんです。それが嫌でつくしんぼに入所したんです。それでこの前その倉田直子さんに偶然会って彼女こそ、運命の人だって……」
やっぱり花村は自分と同じだ、と良介は思った。
以前好意を持った女の子と偶然再会すると、それが〝運命の再開〟だと感じる。しかしその相手がブサイクだと運命とは感じない。
「それで僕、彼女が利用するバスのバス停で待ち伏せしよと考えたこともあったんですけど……でも僕なんか相手にされてないのかなあって、あきらめてたんですかど、阿由葉さんともうまくいかなくて、やっぱり自分には倉田さんが好きなんだなあって思うようになったんです。みなさん、どう思いますか?」
同じ恋の悩みでも今日は前向きだ。
「いいんじゃないですか!」
最初に反応したのは今日子だった。今日子は精神と身体に障害をかかえている。その今日子がオーケーだと言うのだから、やはりターゲットは阿由葉から倉田に変更すべきだ。良介も村井も賛成した。
雪が退院する日が近づいてきた。
そんなある日、良介はキテレツな経験をした。
つくしんぼからの帰り道、突発的に何か小説が読みたくなったので、帰り道の途中にある古本屋に寄った。そうして20分ほど文庫の棚を見て回った。だがどうも「これだ!」と思える本が見つからず、購入する欲のない中古CDのコーナーへ足を進めた。そうして中学の卒業式で『時代』を合唱してから好きになった中島みゆきの札が挟まっている場所を探した。そして雪の旧姓が「中島」だったことを考えて、少し笑った。
中島 雪
良介は中島みゆきの札を見つけ、1枚取り出し、裏のセットリストを見て『雪』というタイトルの曲を発見し、自分自身に手の平を返すように、小説ではなくそのCDを買う決断をした。
きっとスマートフォンで検索すれば金を払ってまでCDを買わなくても即座に聴けることは良介にもハッキリわかっていた。でも視覚障害者になってしまった雪のためには、スマートフォンではなく、CDプレイヤーで聴かせてあげたいと感じたのだ。だからいつも小説を書く時に音楽を流すために使っているCDプレイヤーを、次に雪に会う時に病院に持って行って雪に『雪』という曲を聴かせるんだ! そう誓った。
帰宅した良介はさっそくCDプレイヤーで『雪』を流し、歌詞に聴き入った。
悲しい歌だった。別れの曲だった。ふつう入院中の愛する妻を元気づけるためには、もっとハッピーで明るい歌を選ぶだろうけど、良介はどうしてもこの『雪』を雪に聴いてほしかった。
次に面会した時、雪の目には細く白いメガネのような包帯が貼られていた。
「雪、CD買ってきたよ」
「CD?」
「どうしても聴いてほしい歌があるんだ」
そう言って良介は自宅から持ってきたCDプレイヤーを入院患者用の収納棚の上に置き『雪』を流した。
雪は大切なものを守る聖者のように『雪』を聴いた。歌が終わると雪は、
「なんて歌?」
と良介に訊いた。
「『雪』」
「ユキ?」
「そう、君の名前だ。いい名前つけてもらったね」
雪は枕の横に置いてあるリモコンでベッドを45度くらいに傾けた。そうして、
「顔」
と言って良介の声がするほうへ両の手の平をのばした。良介は雪の手の平を握り自分の顔に触れさせた。
「大好き。良ちゃんの顔」雪はまるで犬が飼い主の顔をなめるように良介の顔を激しく触った。「目が大きくて、鼻が高くて、堀が深い、かっこいい顔。でも、もうわたし良ちゃんの顔、見られないんだよね」
そこへ看護師と女性警官に連れられて、あの雪子が、雪の病室に入ってきた。
その日の午前10時ごろ、雪子は警察署に行き、先日の女性の目を真犯人は自分だと、そうして逮捕され保護観察処分になった森下小径というのは自分の親友で自分をかばい身代わりになったのだと自首した。そして被害者の女性にどうしても謝罪したいと、決して許されることではないとわかりつつ、雪の病院に、病室に、案内してもらった。
「すみませんでした」
雪子は床に手をついて土下座し、後悔の念をふり絞るような大きな声で涙を流しながら雪に向かって謝罪した。
「おじょうさん、お名前は?」
雪は怒りや悲しみそして憎悪の感情をまったく出さずに訊いた。
「雪子です」
「雨冠の雪子さん?」
「はい」
雪子の声は小さくなった。
「そう……わたしは雪。同じ雨冠の。お母さんがつけてくれたの。わたしのお母さん、流れ星を見た時じゃなくて、雪に祈ると願いが叶うって……。だかた、雪」
「わたしもたった一人の親友からは『ユキ』」って呼ばれます」
「そう。雪ちゃん。あなたはまだ若いから、わたしの言うことが理解できないかもしれないけど、〝運命の人〟ってほんとに世界中にひとりしかいないの。たった、ひとりしか……だから、そう思える人にであったら、愛するのよ。愛するってどういうことなのかまだわからないかもしれないけど、そうすれば、必ず、幸せになれるから」
「はい」
目の見えない雪も、目の見える雪子も、泣いた。
雪はこの少女の勇気に感動していた。だから罪を責めなかった。そうして雪の言葉を聞いて雪子は志郎との別れを決意した。
「じゃあそろそろ」
と女性警官にうながされ、雪子は雪の部屋をあとにした。
良介には雪が雪子を責めなかった理由がわかっていた。そうして雪に「愛してる」と言ってキスをした。そうして翌日、雪は昼食を病院食ですませると、私服に着替えて、退院した。
その夜、良介と雪は、気が狂うほどセックスをした。そうしてふたりとも眠ることができなかった。
「良ちゃん、もう寝た?」
「まだ起きてるよ」
「人間て、なんのために生まれてくるんだろうね?」
「それは世界を……」
良介はずっと思っていたし、感じてもいた。
『人は世界を平和にするために生まれてくるのだ』と……。
だが世界でいちばん愛する大切な女性に問われ、プライドと覚悟を持って答えることができなかった。
「世界を……何?」雪は良介の答えをうながした。そして、「平和にするためでしょう?」と確認した。そうしてさらに「だから小説書いてるんでしょう? だから小説家になりたいんでしょう?」と続けた。
「そうだけど……」
答えを返した良介の声は悲哀に満ちて、少し、怒りも入っていた。
「俺の小説なんかで世界を平和になんてできないよ」
「じゃあなんでやめずに書いてるの? 仕事に疲れて休みたいだろうに、なんで?」
良介は答えに窮した。
「良ちゃん、前にわたしに訊いてのよね? 世の中に不満はないかって? 良ちゃんはどうなの? 頸椎損傷して、下半身不随になっても、幸せ?」
「ああ、雪と一緒に生きていけるだけで、俺は幸せだよ」
「じゃあ世界なんてどうでもいいんだ?」
雪のその言葉には、良介以上に世界平和を希求する強さがあった。そして、良介に、世界平和を実現する小説を書いてほしいという願いが込められていた。「じゃあわたしのこと書いて! 中島みゆきの歌みたいに『雪』ってタイトルで失明した愚かな女の小説を!」
「……」
良介は何も言えなかった。
雪は話をやめなかった。それは勇気のいる行為だった。
「良ちゃん、もう一生サッカーできないんだよ! そんな人生イヤじゃないの? 『神さまは耐えられない試練は与えない』って言ったよね⁉ そんなのウソよ! わたし、良ちゃんの顔見れない試練、耐えられないもん‼」
「なあ雪」
「なあに?」
「一緒に、この試練を乗り越えよう!」
良介はさっきまっでとは別人のように明るく穏やかに、そして強く、言った。
「俺は幸せだよ。この身体になったから雪とめぐり会えたんだから。それに、雪がずっとそばにいてくれる。それだけで俺は幸せだ」
「じゃあ明日、仕事が終わったらラーメン食べに行こう!」
雪は眠りについたが良介は起きたまま「幸せとは何か?」ずっと考え続けた。そうして、ふと、思いついたのはまた中島みゆきの歌だった。
『会うべき糸に出会えることを人は仕合せと呼びます』
その歌詞を思い出して良介は自分に腹が立った。
何が世界平和だよ! おまえの小説なんかで世界が平和になるなら、もうとっくに世界は平和になってるよ! 決まってんじゃねえか! エラそうなこと言ってんじゃねえよ! バカ野郎‼」
そう思うけれど、でももし、例えばいじめられて自殺しようとしている十代の若者や少年少女に、
「人間はなんのためにうまれてくるんですか?」
と問われたら、良介は、
「君は、世界を平和にするために生まれてきたんだ!」
そう、まるで甲子園で選手宣誓をする高校球児のように、胸を張って、堂々と宣言するだろう。しかしそれが驚嘆するほど無責任なメッセージだということを、今の良介にはわかる。でもだからといって何もしないでいいわけじゃない。実際悲劇は繰り返されている。
そのころ良介は、月、火、木、金、と週4日つくしんぼに通所していた。水曜に公休日をとったのには特別な理由はない。ただ雪の提案で、週2日から始めて半年、そろそろ通所日を増やしたほうが、工賃も稼げるし、身体的にも精神的にもかんばしいというアドバイスと、日数を増やすなら、週4日、月・火・木・金が良介のセカンドステップとしてベストだというふたつの提案によるものだった。
そうして良介は、まるで光が射したように、輝き始めた。
たとえるなら、世界を平和にするために生まれてきた賢者のように……。