<第5話> 激 情
走りはじめると、いつも同じ音が聞こえてきた。
大地をたたく激しい足音と、のどの奥からこみ上げてくる嵐のように乱れた呼吸の音。
ぼくの耳に聞こえていたのは、それだけだった。
ぼくの通う高校の部活は伝統的に野球部が強く、十五年ほど前、夏の甲子園の県大会の決勝まで勝ち進んだ実績もある。
次いで陸上競技部。その理由は明白だ。1500メートル走の元日本記録保持者が顧問をつとめているから、その顧問の指導をあおごうと、県の内外いたるところから、中学時代も全国で名をはせたエリート選手(生徒)が自然と入学してくるからだ。で、もう一つはバスケットボール部。これはバスケットボール漫画『SLAmDunk』に描かれた高校の一つがうちの高校だったからだ。
体育系の部活で目をみはるのはその三つくらい(ちなみに文化系の部活はまったく評価できるものではなかった)で、ぼくの所属するサッカー部はここ数年、県大会の初戦でボロ負けして、あまりのふがいなさに、ぼくが一年生だったときの三年生は、形容ではなく、実際に、涙を飲んでいた。
ぼくがサッカーをはじめたのは、中学一年のとき、小学六年の冬、全国高校サッカー選手権のテレビ中継を見て、とりこになったのだ。
静岡県代表の東海大一高のエース、アデミール・サントスの伝説のフリーキックは、思い出すだけで、今でも全身がふるえる。
Jリーグは1993年5五月15日に、ヴェルディ川崎対横浜マリノス(当時)、JFL時代からの二大強豪チームの一線をかわきりに開幕した。
自慢じゃないけど、ぼくは中学時代から頭脳明晰で、中間テストや期末テストの成績は、常に学年5位以内を維持していた。
でも、スポーツは、まあ、走るだけだったら長・短問わず得意だったが、球技はまったくダメだった。
だったら、陸上競技部ぶに入部すべきだろう、と誰もが思うだろうが、サントスに魅了されたぼくは、なんの迷いもなく、サッカー部に入部した。
しかし、サッカーを始めたばかりのぼく。ようしゃしても情けなくなるほど、ヘタ、だった。
が、信じられないことが起きた。
ある練習試合の日、ふつう一年生は「ボール拾い」をやらされるのだが、顧問の北居先生が、スターティングメンバ―を発表する際、いつも、ポジションと背番号を先にいってから、選手の名前を指名していていたのだが、その日、その時、その場所で、
「左ハーフ、10番、津島」
と、鋭利な声と力強いトーンで指名した。
ぼくの名前は、津島拓哉、だ。しかし、入部して間もなく、サッカーの経験のない新参者のぼくを試合で使う(しかもスタメンで)わけがない。
だが、数秒後、二、三年生に、ツシマ先輩がいないことが分かった。自分でもビックリした。
あとからわっかったことだが、一年生の教育係兼指導係の二年生、石橋先輩が、ぼくの練習態度を見て、北居先生に、ぼくを試合で使うよう、推薦してくれていたのだ。
ぼくはあわてて、
「あ、はい!」
と変事をし、10番の、緑色のユニフォームを受け取り、身にまとった。
自分でいうのもナンだが、ぼくはどんなことも一生懸命取り組む性格だ。サッカーの練習も、みんながいやがるボールを使わない走るだけの練習も、筋力トレーニングも、つらい練習も全力で取り組んだ。
そんなぼくの姿勢を、石橋先輩は見ていてくれたのだ。
今はどうなのかはぼくは知らないけれど、ぼくが中学生だったころ、サッカーの試合は前半30分、ハーフタイム10分、後半30分だった。
ぼくはやはりサッカー初心者、ただ、左サイドを走りまくるだけで、ほとんどボールにはさわれず、結局、後半5分で途中交代となった。
しかし、北居先生は、
「よくがんばって走ったな」
とほめてくれた。ぼくはうっれしかった。
その経験から、
『最初、ダメでも、努力して、結果をだせば、認めてもらえる』
といことが、ぼくが大人へと人間形成してく基盤となった。
しかし努力で才能は生まれない。ぼくは中学三年間、ずっと補欠だった。
それでもサッカーが好きだったから、高校に入学してからも、なんの迷いもなく入学式の翌日にサッカー部へ入部届を出し、中学時代のチームメイト、大沢源太、前田良人と、さっそく練習に参加させてもらった。ミニゲーム(ハンドボールのコートとゴールを使って行うゲーム練習。いまでいう「フットサル」を」イメージしていただければつたわりますかね)で、なんと、ぼくは、ゴールを決め、期待の一年生として、幼い顔と〝ツシマという名前〟を覚えてもらうことができた。
今度こそレギュラーになれる。ぼくは、そう、思っていた。
しかし、そのゴールはマグレで、ぼくは、高校の三年間も、すっと、補欠だった。でも、試合に出ればぼくは、必ず結果を出した。
そして最後の大会の予選、ぼくは、負傷した10番に代わって、司令塔として先発で出場した。
結果は、0対4の圧倒的な敗北だった。
ぼくは悔しくて、悲しくて、泣いた。でも他のみんなは、
「あ~、終わった終わった。早く帰ってオナニーするか」
なんていいながらユニフォームをぬいでいた。
みんな、本気じゃなかったのだ。試合に負けてことよりも、そのほうがつらかった。
ぼくは、他のなによりも、たとえば東大に現役で合格することよりも、かわいい女の子とお付き合いすることよりも、サッカー部のレギュラー争いに勝って、チームを全国制覇に導き、プロサッカー選手になることのほうが重要だった。
そして、、負けたら終わりのトーナメントに敗れ、ぼくの夢はかなわぬまま終わった。
ふつうに考えれば、県大会の一回戦で負けてしまうような弱小チームの補欠選手が、プロサッカー選手になれるわけがない。そんなこともわからない大馬鹿野郎にもかかわらずぼくは夢を、あきらめられなかった。
大学で、また、チャレンジすればいい。
気持ちがポジティブになったぼくの心に新鮮な風が吹いた。
恋。
最後の大会で負けたぼくに、気になる女の子ができた。
彼女の名は、太田静香。
彼女は文芸部に所属していて、スマートで、スレンダーで、そうして女優かアイドルになっても不思議ではないほどきれいな顔をしていた。
男子にモテなかったのは、口数が少ない根暗の女子だ、と思われていたからだろうか?
休み時間も読書、放課後も文芸部の部室で読書。自分で小説を書いてもいるらしかった。
みんな、彼女を〝愚劣〟と揶揄していたが、そんな彼女にぼくは惹かれていった。
文芸部の女生徒に特異なスポーツがあるはずはないと思っていたが、彼女は意外にも、
ぼくと同様、球技はさっぱりだったが、走るのは得意だった。
彼女は、秋の陸上競技大会で女子3000メートルにエントリーすることになっていた。ぼくは男子1500メートル。そうして彼女とぼくは、クラス対抗リレーの選手にもえらばれていた。
陸上競技大会の開始時刻は午前九時半。
男子100メートル予選をかわきりに、太田の出場する女子3000メートルは十一時からはじまった。
スタート直後、陸上競技部の原口美香が飛び出し、そのあとを太田静香がついていく展開。
レースはそのまま進み、ラスト200メートルでスパートした原口に太田は離されたが、全国4位の実績を持つ原口に次いで2位というすばらしい結果を残した。それでも太田は悔しがった。ぼくは購買わきの自販機でペットボトルのスポーツドリンクを買って3000メートルを激走して呼吸を乱した太田に近づき、
「おつかれさん」
といって、スポーツドリンクをわたした。
「はあ、はあ、ありがとう」
そういうと、太田は顔を上に向け、スポーツドリンクでのどを潤した。
「うまいだろう?」
太田は小さくうなずいた。
「全力で走ったあとに飲むスポーツドリンクって超いまいよな」
「津島くんは1500だったよね?」
「ああ、絶対優勝してみせるから! ちゃんと見てろよ!」
「うん、がんばってね!」
「優勝したら、付き合ってくれよな!」
「え?」
「よし! じゃあ、ひとっ走りしてくるか」
そういい残して、ぼくはウォーミングアップに向かった。
三十分後、男子1500メートル。
ぼくは一位でゴールして、ぼくと太田静香はめでたく両想いの恋をした、というハッピーエンドをむかえるのが普通の恋愛話なんだろうが、残念ながら、ぼくは4位に終わった。
太田静香がゴール付近でペットボトルのスポーツドリンクを持って、ぼくを待っていた。
「はい、おつかれさま」
「お、サンキュー。はあ、はあ、情けねえなあ。4位だなんて」
「ううん、津島くん、かっこよかったよ」
「でもまだチャンスはある。……リレーで優勝しよう!」
「うん」
静香は笑った。
午後二時半。陸上競技大会最後の花形種目、クラス対抗リレーの時間が訪れた。
走るのは、各クラス男女五人ずつ。ぼくらのクラスは、静香が第一走者、ぼくがアンカー。
こうなると静香が一位で第二走者につないで、そのまま、アンカーのぼくが一位でゴールするのがふつうのハッピーエンドの高校生の恋愛話なのだろうが、残念ながら、ぼくらのクラスは3位だった。
人生は、いつだって、思い通りにいかない。
陸上競技大会は土曜日に開催されたので、週明けの月曜、学校は休みだった。
火曜日、ぼくは静かに告白しようと決めていた。
わたしは、子どものころから本を読むのが大好きだった。理由は小学一年のときに読んだフランスの小説家、ヴィクトール・ユゴーの『ああ、無情』をそして三年生のときによんだ大長編『レ・ミゼラブル』を読んでとても感動したからだ。
それから時々、原稿用紙五枚くらいの短い小説を書くようになった。
わたしは中学一年の二学期から、学校に行かなくなった。いじめにあったわけではい。新任の体育教師が怖かったからだ。
なにか気にくわないことがあると、わたしに、
「太田、今日授業が終わったら、職員室に来るように。わかったな!?」
と、いわれ、放課後職員室へ行くと、信じてもらえないかもしれないけれど、その体育教師の車のなかで、おかされてのだ。
わたしは、学校に行くのが怖くなった。でもそのことを誰かに話すことなんてできないってことは、よくわかっていた。
恐怖のつのる毎日、週末その体育教師が、家に来ることもあった。そんな毎日に耐えられえる人がいるなら会ってみたい。
そうしてわたしは、ほとんど学校に行かず、中学を卒業した。
やっと、体育教師の呪いから解放された。と、思ったが、体育教師は、もう関係ないはずなのに、わたしの自宅までやってきて、
「いや~、静香さんは身体が弱いから、心配で心配で。どうです最近は?」
「わたしにもよくわかりません。でも先生のような方がいてくださってわたしも母親として安心です」
「静香さんのお部屋は?」
「あ、二階の左側の部屋です」
「ちょっとおはなしさせてもらってもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろん。あの子も先生がいてくれて心強いとおもいます」
しかし、神さまは弱いほうの見方だ。その体育教師の家が、放火され、体育教師は死んだのだ。
わたしはようやく体育教師の呪縛から、解放された。今度こそ、本当に……。
高校生になってからは友達もできた。同じ文芸部の仲村徹子ちゃん。唯一、なんでも話せる親友だ。そうして、三年生になると、好きな男の子もできた。
津島拓哉くん。
徹子は、彼のことを、〝ダメな男〟と批判した。
「あんな男、よしといたほうがいいよ。勉強もぜんぜんできないし、一応サッカー部には入ってるけど、試合に出たことなんかないって、うわさだよ。それに、ドスケベだって、有名」
でも、わたしは彼が好きだった。
わたしはスポーツが苦手だったけど、走るだけなら自信があった。そうして、陸上競技大会で優勝したら、想いを打ち明けようと決めた。
わたしがエントリーしたのは女子3000メートル。5000メートルは長すぎてスタミナがもたないし、1500メートルは短すぎてスプリントが足りない。3000メートルはわたしにとって得意の距離だ。
そうして、レース直前のウォーミングアップの最中、
「絶対優勝して津島くんに告白するんだ」と決意していた。
だが、優勝できる可能性は極めて低かった。陸上競技部「県の代表」の原口美香が3000メートルにエントリーすることをわたしは知っていたからだ。
基本的にわたしは、競争ごとが嫌いだ。それは、大好きだったおじいちゃんとおばあちゃんがいとなんんでいた和菓子屋が、大手製菓チェーンの進出で、廃業に追い込まれたからだ。
資本主義社会でお金をかせげないやつはバカだ――。
本で読んだのか、テレビで見たのか、人づてに聞いたのか、それは覚えてないけど、そのせりふが今でもわたしの胸の奥で渦まいている。
何年か前、中東や北アフリカで、大規模な〝民主化〟デモが起こった。
人々は狂喜乱舞し独裁国家の長(おさ)が、集団暴行を受け、殺された。
多くの人々が「民主主義社会」はシャングリラのように思っているようだが、民主主義社会は「競争社会だ」。
勝たなければ、お金をかせげなければ、ごはんが食べられなくなる。
なぜ〝戦争〟は否定されるのに〝競争〟は承認されるのだろうか? 奪い合うものが〝命〟から〝金〟に変わっただけじゃないのか? どうして誰も民主主義のデメリットを指摘しないのだろうか?
おじいちゃんは自殺した。おばあちゃんもあとを追って自殺した。
あらそいが、悲しみや苦しみやいじめや殺人につながる。そういった「負」の感情や行動のない世界を、どうして誰も、作ろうとしないのだろうか?
しかも、資本主義社会にあって当たり前のい〝格差〟を問題にする。その矛盾をも、誰もあきらかにしようとはしない。
わたしは偽善者になりたい。
「人」の「為」と書いて『イツワリ』とい読む。それは、いつわりでもいいから人のために生きろ、という教訓だ。
わたしは闘う。
この世界を完全に平和なものにするために。
しかし、これが、わたしを苦しめる自己矛盾、だ。
平和のために、闘争しなければならない。
陸上競技大会のあと、拓哉と静香は、一緒に登下校するようになった。
高校三年になるまで、二人はお互いを意識していなかった、が、二人の家はとても近かった。直線距離にしたら、陸上トラックの一周にもならない。
「ねえ、津島くん、進路どうするの?」
「いちおう大学行こうと思ってる。で、今度こそレギュラーになって、大活躍して、有名になって、プロサッカー選手になる。それが、今のオレの夢」
「すごいね津島くん、わたしなんかどうしていいか、ぜんぜんわかんない」
「静香はなんか夢とかなりたいものとかないの?」
「笑わないって約束してくれる?」
「もち、笑わない」
「正直いうと、小説家になりたいんだけど、わたし、才能ないし、原稿用紙五枚の物語でいっぱいいっぱい」
静香はなんだか、切なそうだった。
「オレは本読まないからわかんないけど、小説って長いほうが価値あるの? 中身が大事なんじゃないの?」
「そうだね、でも、わたしにはムリ」
「どうして、あきらめちゃうの?」
「自信ないから」
「そんなこといったら、オレなんか、ただのバカだよ。万年補欠の夢物語」
「夢?」
「ああ」
拓哉は静香の手をにぎった。
静香は赤面する自分を認めた。
「そういえば、わたし、きのう、小さいころよく見た悪夢、また見た」
「どんな夢?」
「わたしにの家、おもやとはなれの間に10メートルくらいの通り抜けになってる物置があるの。そこに入った瞬間、大きな石が、なんていうか、妖怪の「ぬりかべ」見たいのが落ちてきて出入口をふさがれちゃって、反対側から誰かが、コツ、コツ、って足音たてながら、ゆっくりわたしのほうへ近づいてきて、わたしを殺そうとするの……そんな、怖い、夢……」
「ん~ん、かなしばりみたいなもん?」
「ちょっと、ちがうけど、限りなく近い」
「かなしばりなんか、オレ、しょっちゅうだけどな。それでも、怖いよな。だって自分の身体が自分の意志に反応してくれないんだから」
そうして、拓哉と静香は、T字路に着いた。拓哉が右、静香が左、それぞれの自宅がある。
「じゃあ、また明日」
「ああ、小説、がんばれよ! オレもがんばるから!」
「うん」
「悪夢見て、眠れなかったら電話してこいよ。オレが声で抱きしめてやる」
「ありがとう、じゃあ」
「ああ、また明日ここで待ち合わせ、な」
翌朝、またT字路で待ち合わせして、一緒に学校へ。
駅まで歩いて十五分、電車で隣町まで十分、そこからふたたび歩いて十五分の。二人はいつも、未来の話をしながら登校した。
下り電車はガラガラだ。二人はいつも一番先頭の車両にのって一番前のシートにすわった。
「津島くんさ、サッカー選手になれなかったら、どうするの?」
「え……? 考えたことないよ」
「わたし、看護師になろうと思って」
「小説家、あきらめちゃうの?」
静香は大きな覚悟を決めて、息を深く吸ってから、
「知ってる? わたし、両親いないって?」
と、いった。
「そうなんだ」
拓哉は、そんなことどうってことないじゃん、というふうにうなずいた。
「それで、親戚のおばさんと二人暮らししてるんだけど、お母さんが看護婦だったって教えてもらって、もしかしたら遺伝で、看護師の才能、あるかなあって、思って。だから看護短大いって看護師になる。それが、今の、わたしの、夢!」
「いいと思う」
「ありがとう」
学校についた。二人は当然同じクラスだ。それだけじゃなく席も近い。
静香は幸福を感じていた。こんなに早く〝運命の人〟に出会えるなんて――。
「なあ、オレたち、陸上部に入ったほうがよかったんじゃないかなあ? どう思う?」
「わたしも、おんなじこと考えたことある。で、インターハイで優勝して、実業団からスカウトされて、マラソンランナーになって、オリンピックに出場して、金メダリストになるの!」
そういって、静香はとびっきりの笑顔を見せた。拓哉もほほ笑んだ。
いよいよ卒業の日が近づいてきた。いろんなことがあったような気もするし、なにもなかたようにも思える高校三年間……拓哉くん。
拓哉は聞き覚えのない声に背後から呼ばれた。そうして、無言のまま、ふり返った。
「わたしの声、忘れちゃったの?」
「すみません。美人の方はわすれないはずなんですけどねえ」
「アイザワよ。アイザワキョウコ」
「アイザワ……キョウコ……?……え?、相沢先生ですか?」
「もう、先生はやめてよ。いまは、ごくふつうの会社員」
「教職にはつかなかったんですか?」
「ええ、いちおう教員免許はとったんだけど、弁護士になりたくて、今は横浜の弁護士事務所で働かせてもらいながら勉強中」
相沢恭子は、拓哉が高一のとき、教育実習に来ていた拓哉のはじめての彼女だ。なぜ、別れてしまったのかはわからないが、二人は半年ほど交際した元・恋人同士だ。
そうして、はじめてのデートで映画を見に行き、その夜ファーストキスをした、女性だ。
拓哉は、恭子が教育実習最終日にくれた写真とメッセージカードを今でも大切に保管している。声でわからなかったのは、顔を見たとき、メガネをかけていたからだ。
「メガネ、似合いますね?」
「やっぱり?」
高一の春、拓哉はすごく情熱的な十五歳の高校生だった。それゆえか、はわからないが、当時放送されていた学園テレビドラマに強い反感を、いだいていた。
そのころ、世間では、十五歳前後の中高生が自殺する事例が社会問題になっていた。
そんなとき、ドラマの主人公である国語教師が、
「十五歳で死ぬなんていうなよ!」
と怒号をあげて生徒たちを叱ったが、拓哉が強い反感をいだいたのは、そのせりふだ。
『なんもわかってねえなあ、このセンコー⁉ 十五歳で死にたくなるようなことを、おまえらがやらせてんだよ‼」
その教師はさらに、口数の少ない生徒に、
「おまえは暗いなあ」
と、人格さえ批判し、否定もした。
最低の教師だ。いや、教師失格だ。
拓哉は、そんな激情を、年上の教育実習生にぶつけた。そんな男と出会えたことを恭子は神に感謝し、メッセージカードを送った。
津島くんへ
津島くんには本当にいろいろなことをいただきました。
わたしが忘れていた大事なことを思い出させてくれました。
感謝しています。
W杯にでたら絶対応援に行きます。
いつまでも熱い魂を燃やし続ける人でいてください。
相沢恭子
拓哉は監督不在のサッカー部しかない大学に進学した。が、しかし、三ヶ月で退部してしまった。
静香とは、遠距離で続いていた。だが、拓哉は、高校生のときからの自己矛盾に苦しんでいた。
レギュラーになりたいなら、プロサッカー選手になりたいなら、日本代表に選ばれたいなら、競争に勝たなくちゃならない。
「戦争じゃない、スポーツなんだから」
拓哉が戦う相手は、ライバルでも敵でもなく、自分自身なのに。その思いが伝わっていたならば、静香は慟哭せずにすんだのに。
拓哉は2002年、ワールドカップ日韓大会に出場した。というのはウソだけど、もし、生きていたならば、あの熱い魂と情熱で、日本代表を世界一に導いたかもしれない。それとも、チケットの一枚すら手に入らず、テレビ中継で、日本代表の快進撃を楽しそうにいや、あの熱い魂と情熱にきらめく瞳で観戦しただろうか? それとも、それともなんだろう……。
わからない。自分たちが勝利のよろこびによいしれれれば、倒したチームの選手やサポーターを悲しませてしまうという現実の前にまた、苦悩しただろうか?
いずれにせよ、拓哉は、もういない。
六月十九日。今日は拓哉の命日だ。静香は五歳になる拓哉の子ども・玲人をつれ、津島家のお墓を訪れた。
花を生け、墓石を水で洗い、お線香をたむけ、手のひらを合わせて、目を閉じ、祈る。
静香は玲人にウソをついていた。
「パパは今、遠い国で、あらそい続けている人たちに、平和の大切さを教えているの。みんなが仲良く暮らせますように、って。だから玲人もおともだちと、ケンカなんかしちゃダメよ」
静香はこみ上げてくる激情をおさえることができなかった。
「ママ、なんで泣いてるの?」
「なんでもない。ただ、うれしいだけ」
人は、いつだって、突然死んでしまう。その悲しみは、いつまでも消えることはない。
拓哉の死後、わたしは男の人を愛せなくなった。
もう、十七歳の高校生じゃない。わたしに新しい〝愛する人〟ができれば、拓哉もきっと祝福してくれるはずだ。だからわたしは、今、に十歳年下の高校生と、熱愛中だ。
偶然にも、彼の名もタクヤだ。字は『卓也』とちがうけれど。
おととい、わたしは卓也からプロポーズされた。
「静香さん、ぼくと結婚してください」
わたしは無言で首を横にふった。
わたしは今三十七歳だ。卓也は十七歳。
卓也はまだ「恋」と「愛」のちがいも理解できていないだろう。
わたしと卓也は、そう長くは続かない。だって、わたしの「愛」はまだ拓哉にあるのだから。きっとこの激情が消えることは永久にないだろう。
どうか、玲人が、パパのように、やさしい人になってくれますように。
そうしてわたしは玲人と二人、太陽のように生きていく。いつまでも、いつまでも……。