私なりに調べて、まとめた内容です。
長文ですが、みんなに知って欲しいことなので、ぜひ読んで頂けたら有難いです。

東日本大震災で甚大な被害があった、大川小学校の被災遺族の方のドキュメンタリー「生きる」を見て来ました。

この小学校は、東日本大震災の時に、津波被害に遭い、全校児童108名のうち、74名と、教員10名が亡くなりました。

被災地で、学校の管理下にあった子ども達で、被害が一番大きかった場所が、この小学校になります。

私は、昨年、宮城と岩手の被災地を5箇所回りました。
沿岸の地域は、どの場所も被害が酷かったのですが、学校を中心に見ていく中で、この大川小学校は、他とは違う雰囲氣、波動をしていました。

なぜ、こんなにも地域によって違うのか?そんな疑問が私の中にありました。

大川小学校の震災遺構にある展示ギャラリーで詳しく知ろうと入ると、入ってすぐ目に止まるのは、遺族による市、県を相手に裁判を起こしているという新聞記事と、ドキュメンタリー映画の案内が貼られていたことに、私はとても驚きました。

他の被災地では、被害から学ぶ展示が多かったので、ここの場所は、裁判という話からギャラリーが始まる。

この場所が時間が止まった様な波動をしている理由が分かった。

ギャラリーの方の訪問者の出迎えも無く、静かだった。

新しくきれいな建物なのに、無の静けさを感じた。

展示を見ていくと、この地域の被害の大きさが、とても分かり、怖さを感じた。
理由は、平地が多いという印象だったから。

学校のすぐ側には大きな川が流れ、とても穏やかなきれいな川。
この川と共に発展して来た場所、学校だと思った。
被害に遭うまでは、穏やかな地域性の、とても良い学校だったんだろうなと思った。

子ども達も、学校が好きだっただろうなという波動を感じた。

展示を見ても、私が感じた疑問は解消されなかった。
なぜ、こんな被害になったのか。
なぜ、避難場所として川沿いの橋を目指したのか。
なぜ、山に避難しなかったのか。

その後、ネットで色々調べたけど、答えは見つからなかった。
なので、今回、ドキュメンタリーを見に行って来ました。

ドキュメンタリーは、被災で亡くなった子ども達の親と、学校、教育委員会との対話がメインでした。

親達も、なぜこんな被害になったのかを知りたかった。

だけど、学校長や、教育委員会からは、過去にない規模の自然災害だから予想出来なかったという答えを言われる。

学校の管理は適切だったのか、当時の二次避難の判断は何だったのか、保護者は、それが知りたかったのだけど、詳しいことは明かされない。

その後、第三者委員会による調査もあったが、詳細は明かされず、生存者の聞き取り調査のメモも教育委員会が破棄していたということが判明、遺族は裁判を起こし責任を問いた。

裁判は、高裁まで行き遺族の勝訴
被告の上告は棄却され終わった。

ドキュメンタリーは、ここで終わったが、私の心は晴れない。
疑問が解消出来ていないからだ。

裁判の争点は、学校の管理問題を追及するということだった。
実際に、避難訓練は、311発生前、2年連続で行われていなかった。
だけど、校長は実施と教育委員会へ報告していた。
現場での災害対応、管理の不備。
そこを追求したからの勝訴と思われる。

だけど、遺族がずっと知りたかったのは、地震発生から津波が来るまで何があったのか、二次避難への判断と行動だったと思う。
それは、ドキュメンタリーではハッキリ話されていないけど、私はそう受け取った。

賠償金が欲しいわけではなく、真実が知りたかったのだ。だけど、日本の法律には、そこを追求する為の法がない。

知りたかったことが分からないままなので、モヤモヤした終わり方だった。

唯一、生存している先生が一人いる。
また自力で山に登って生きながらえた子ども4名からの証言。

ドキュメンタリーを見ている中で、私は、生存している先生は、真っ先に山に逃げたのかな?と思っていたけど、違う。
その先生は、唯一、津波が来る前に、山へ避難を話した先生だった。
だけど、その意見は却下されてしまったのだ。

おそらく、先生同士のコミュニケーションが、日頃からうまくいっていなかったと思われる。
(ドキュメンタリーで話しをしていた保護者の言葉からそう感じた。ハッキリそうだとは話してはいない)

後で私が調べて分かったのは、裏山は、土砂災害危険区域になっていた。
だから、山に避難という判断が取れなかった。

裏山がダメだと、他に行ける高台は周りには無い。

学校に避難して来た地域住人からも、裏山避難を反対する声もあった様だ。
(この証言はネットから見つけました)

先生達は、とても困ったと思う。
少しでも高いところへと判断したのが、川沿いの橋の場所だったのだと思う。
(その場所は海抜6m、学校は海抜1.2m)

スクールバスで避難という道もあったが、取らなかったのは、1台のみだった為、乗れる定員があるからではないかな。

乗る優先順位が決められなかったり、バスでどこに行くか決められなかったのかもしれない。

津波は、川を登って来た津波と、平地を登って来た津波が交差し、子ども達は渦に巻かれる様に飲み込まれたとのこと。

2階建ての学校の2階のほとんどを飲み込んだ津波だった。屋上があったら、助かった可能性はあったかもしれない。

ドキュメンタリーでは、生き残った先生が、名前と顔を出した状態で上映されていた。

あれだけ見たら、先生は自分だけ生き残った人という目で見られるのではないかな。

声は届かなかったけど、山に避難を声にしたんだよね?
それを聞いた子どもが、そうだと思った子がいたのではないかな?
だから、先生に山に逃げようと声にした子どもがいたのではないかな?
それに共感し、行動した子が、生き残ったのではないかな?

全員を救うことは出来なくても、一人でも命を救ったとしたら、先生がいて良かったのではないだろうか。

その後の先生は、親に寄り添う様な行動が出来なかったかもしれない。
先生も管理下にあったと思う。

親と上に挟まれて、どれだけ苦しかっただろうか。
目の前で、子ども達が亡くなっていく姿を見ている。
それだけでもPTSDになると思う。
ドキュメンタリーで名前と、顔を出すのは、どうかと私は思った。
ヒーロー扱いされているなら良いけど、実際は違う。

昔、戦地に行って、生き残って帰国した日本兵の苦難と、重なる様な氣がした。

子どもを失うことも、親として本当につらいことだと思う。私だったら、子どもを失ったら生きていけないと思う。

つらい思いの中、市と県に管理不備の責任を問うた遺族の皆さんには、心から祈りを贈りたいと思う。

この裁判は、これからの日本の未来に、風穴を開けたと思った。
大きな山を動かし、崩した第一歩だと思う。

行政に対して起こす難しいと言われた裁判を、勝利に導いたのだから。

権力や力で泥まみれの日本の行政や国に対して、小さな町のお父さん、お母さんが、渇を入れたのだから。

遺族の中でも、1/3の親だけが起こした裁判。
親の中にも、色々なわだかまりや、批判があったと思いますが、大切なことをしたのだと胸を張って欲しい。

この記録は、これからの日本を建て直す、大きな道標になると、私は思う。

大川小の土地が、癒され、優しい光でずっとずっと守られることを祈っています。

こちらのフライヤーは、昨年8月に大川小学校ギャラリーで撮影したものです。