以前にもメモに残した石津謙介氏のエッセイ集・石津謙介かくし味(平凡社1996年発行)。

 

15年以上の時を超えて、今でも共感する言葉が少なくありません。

 

石津謙介氏の人となり・見識・感性・乗り越えてきた人生の道のりが、時が過ぎようとも変わらない言葉として心に響きます。

 

その言葉のいくつかを此処に書きとめます。

 

人から聞いたと言う店は、その本人がうまいと気にいっただけで、必ずしも他人の口に合う保証はまったくない。
料理はなかなかのものだが、包丁を握っているオヤジのおしゃべりが気に喰わなかったり、口数の少ない奥様のほうは静かでなかなか品が会って、でも着ている着物がケバケバでなんともイカさなくて、なんてのもあるから、何もかもピッタリというのはそんなにあるもんじゃないと諦める。

 

早くできて、そんなに高くなくて、すなわち普通のもので質がよくて、なんとなく誠意が感じられる味。それを私は『ハイスタンダード』と呼ぶ。
この頃は、妙に懲りすぎの献立が多すぎる。

 

ふだん我が家で食べなれたお菜だが、やはりプロの味は違うなあと感じさせるような。そんななにものかであれば、それで十分なのだ。大して豪華でもないくせに、やたらと、色とりどりのものを数種並べる必要なんか毫もない。昔の味を上手に思い出させてくれるようなノスタルジックな味と、素朴な見ばえで、なるべくオーソドックスなものがよい。クラシックだなあと思わせてくれるものならなんでもよい。器だけが大きな面してノサバッているのはまことの困る。昔からの伝統をきちんと守って。バカ丁寧なくらい古くさい匂いのするものが好きなんである。

 

古い中にも現代の息吹を感じる。これはまさに「温故知新」。古きをたずねて、新しきを知るというクラシックな感覚こそ、ハイスタンダードなライフスタイルに、まさにピッタリと言えるのではあるまいか。

 

西洋かぶれの「にせ国際人」ではなくて、日本人としての姿勢を持って、インターナショナルに活躍する。そういう真の意味での国際人にならなければ、これからの世界では通用しないことを痛切に感じる。

 

こと鯨に関しては、欧米と日本人とは、歴史的に考え方が違うのだからしょうがない。

 

こんなに鯨が少なくなったのは、アメリカ人たちが、油欲しさにメチャクチャに鯨を殺したからだそうで、肉は全部捨てて、脂肪や骨から鯨油をとったのだそうだ。

 

所詮向こうはギャングの仕業、こちらはサムライの役目。まったく発想が違う。

 

「身分をわきまえろ」、「柄にもないこと」というのは近頃あまり耳にしないセリフだ。

 

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などなど、成程!! 同感です!! そうそうその通り!! という言葉が随所に記されています。

 

鯨については、諸説あるとは思いますが、
人それぞれにライフスタイルがあり、心地良いと感じることも人それぞれ、
何事も一律・十把一絡げにするのは無理があり、
また、妙に背伸びしたり、無理をして合わせたりすることもない、
似合わないことはしない、決して心地いいはずがありません。

 

肩肘張らない自然な自由人。ただし、自分が納得ずくでのやせ我慢はいとわない。

 

そんな姿勢かと読み取った次第です。

 

正に温故知新、今に通じる、石津謙介よ永遠なれ!!