大河ドラマ篤姫で、後の篤姫となる娘を養女に出す最後の日に母がこんな言葉を贈りました。
『一方聞いて沙汰するなという言葉があります。どんな人の声にも満遍なく虚心に耳を傾け、その人その人の身になってよくよく考えるのです。それでも思い迷うたら考えるのをおやめなさい。考えるのではなく感じるのです。自分を信じて感じるままに任せるのです。』

 

一方聞いて沙汰するな、迷ったら考えるのをやめ、感じるままに任せる。

 

これは何時の時代にも言えることです。
先日札幌で買い求めました、札幌のおやじたちがナビゲータ・オトン(O.tone)という月刊誌に喫煙に関する特集記事があり、その内容にも符合します。

 

まずは、《おやじは怒り、黙ってる》というエッセイから、要約しますと、
世は嫌煙運動の全盛期。何時、何処でも、煙草を吸うと白い目で見られる。
どうしてこうなったのか、喫煙は個々の嗜好、マナーを守れば個人の権利に帰属する。嫌煙権もあれば愛煙権もあり、その結果責任は愛煙家本人に帰結するだけのこと。
一方で『煙草は地元で買いましょう』というキャンペーンがある。たばこ税は地元に還元され、札幌市では年間150億円が還元され、これは札幌市の年間総除雪費に匹敵する。
愛煙家は非喫煙者よりも年間かなりの額を納税している計算になる。
日本人の平均寿命83歳は喫煙率が低い欧州を超えて世界最高、これ以上長寿国を目指すのかと皮肉りたくもなる。
おやじ世代にとって煙草は文化でもある。ハンフリー・ボガード、ジェームス・ディーン、石原裕次郎らの煙草の吸い方、くわえ方へ憧れた。男の寂寥感、アンニュイ、躊躇と無言の悲しみを表す最高の小道具だった。
そして今なお長年の喫煙習慣が役立っている。照れ煙草に始まり間をもたせる煙草、ストレス解消煙草。
とは言え世は禁煙強国。こんなたわ言も犬の遠吠えに過ぎない、このコラムでちょっぴり溜飲を下げたものの後が怖い。おやじは本当に怒っていても、やっぱり、ジッと耐えなければならないのである。

 

かく言うそれがしは煙草をやめて15年以上が経ち今や喫煙者を白い目で見がちですが、喫煙者の考えを聞くに及び、なるほどと思うこともあり、やはり一方聞いて沙汰するな、最後は自分の感じるままを大切にすることだとあらためて思った次第です。

 

まずは他人の嫌がること、他人に迷惑になることはしないことですが、
一方で、他人の迷惑にならなければ何をやってもいいという訳ではないにしろ、喫煙が何をやってもいいのかと言われるほどのことでは無いのかもしれません。
度を越した嫌煙は、むしろ他人の嫌がることを押し付けているのかもしれません。

 

震災のニュースで、
夫の墓に線香の代わりにそっと煙草を供える妻の映像があったり、
夫の亡骸のポケットから煙草が出てきて、煙草はやめたものと思っていたものの、家では気を遣って禁煙していたことを知り、あらためて夫の愛情を感じたという夫婦の記事もありました。

 

煙草の似合うオヤジ、これも一つのオヤジの到達点ではないでしょうか。

 

日本人は甲乙つけがたいという言葉があるように、曖昧な着地点を見つける名人でもあります、ここは西欧流に一刀両断にバッサリというのではなく、一方聞いて沙汰をせず、まあまあ鷹揚に適当で紫煙の如くもやもやとした状態で多少の喫煙は見逃すのが、むしろみんなにとってそこそこ心地良いのかもしれません。

 

十人十色煙草模様という記事にこんな書き込みもありました。
禁煙したんじゃないよ、美味しく煙草を吸える環境じゃなくなったから休煙してるだけ。
煙草は人生を通しての悪友のような存在、無きゃ人生の愉しみが半減しちゃう。

 

狸小路にある煙草専門店・中川ライター店の方の記事では、
煙草をやめる常連さんが『今まで世話になったね、また遊びに来るよ』とわざわざ挨拶に訪れることもある。
せめてうちの店では気兼ねない一服で一息ついて欲しいな。煙草屋のありようも昔とずいぶん変わったけれど、きちんとマナーを守りながら、ご近所の人たちが集まって井戸端会議であり続けたいと思っている。

 

日本の片隅に残る心あたたまる情景がうかんできます。

 

更には煙草豆知識の記事もありました。
煙草生産のプロセスにはさまざまな作業と時間が必要で、収穫から出荷まで、なんと3年も要するとか、
晴天のことを『ピーカン』と言うのは、缶入りピースの青い色を青空になぞらえたことが語源という説もあるとか、
なかなか読ませていただきました。

 

地元誌から様々なことを考えさせられた出張なのでした。