青い庭のアトリエ -Sukhothai- -22ページ目

青い庭のアトリエ -Sukhothai-

青い庭はナツミントの私的な庭です。
ここでは日々の生活を送る中で思ったこと、考えたこと、感じたことを綴っていこうと思います。

「Sukhothai」はタイの古都の名前で「幸福の夜明け」を意味します。

私は「人の為に見える行動も、実は自分の為の行動の可能性がある」と知ってから、身近にあることで「人の為に見える行動で、実は自分の為の行動の可能性がありそうなもの」について考えたことがあります。

そこで思いついたのはボランティア活動で、私は【自主的に社会に無償で奉仕をするボランティア活動】について、「ボランティア活動は本当に無償なのか?」「人の為に見えるボランティア活動も、実は自分の為の活動の可能性があるのではないか?」と考えてみました。

「人の為に見えるボランティア活動は、実は自分の為の活動である」と考える人達からは、ボランティア活動は「偽善である」「自己満足である」という意見を聞くことがあります。
本当にそうでしょうか?

【偽善】の意味を辞書で調べてみると【うわべをいかにも善人らしく見せかけること】【また、そういう行為】とありました。
【他人のためを思う親切心】である【善意】がないのに、【よい行い】【道徳にかなった行為】とされる【善行】により、【善良な人】【行いの正しい人】である【善人】らしく見せかける人がボランティア活動に参加する可能性はあると思いますが、それだけで【ボランティア活動=偽善】【ボランティア=偽善者】とは言い切れないと思います。
それに偽善者ボランティアによる活動であっても受ける側が助けられている事実があるならば…偽善者ボランティアを悪として否定するのは安易な考えだとも思います。

【自己満足】の意味を辞書で調べると【自分自身に、または自分の言動に、自分で満足すること】とありました。
私はボランティア活動に参加した時に精神的な充足を得た経験がありますし、精神的な充足を得た経験からまた参加したいとも思うようになりました。
なのでボランティア活動に自己満足の側面はあると思っています。
けれどボランティア活動によって精神的な充足を得ることは悪として否定されることでしょうか?

【無償】を辞書で調べると【代償・報酬がないこと】とあります。
ボランティア活動には【無償性】が求められることから、ボランティア活動によって精神的な充足を得た場合もそれは【代償・報酬がある】【無償でない】と見なされるのかもしれませんが、精神的な充足が得られないことに対して人は無償で自分の時間やお金を使うものでしょうか?
ボランティア活動から精神的な充足を得ることを悪として否定したら、ボランティア活動は縮小停止してしまうのではないでしょうか?
ボランティアによる助けを必要とする人達が存在するのに、ボランティア活動の縮小停止で助けを受けられなくなる人達が増えたら…そちらの方が悪ではないでしょうか?

これらのことから私は「ボランティア活動に参加するボランティアには偽善者が存在する可能性はあるけれど、それだけでは【ボランティア活動=偽善】【ボランティア=偽善者】とは言い切れず、偽善者ボランティアが存在したとしても受ける側が助けられている事実があれば悪とは言い切れず、またボランティア活動には参加することで精神的な充足を得るというボランティアの自己満足の側面があっても、それがボランティアに求められる無償性を損なうとしてもボランティア活動の拡大継続に必要があり、ボランティアによる助けを必要としながら受けられない人達を増やさない為に必要であり、助けを必要としながら受けられない人達を増やすことの方が道徳的に悪なのではないか?」と考えるようになりました。

またボランティア活動から得られるものは精神的な充足だけでなく、【ボランティア活動を通じた出会いにより自然と築き上げられていく新たな人間関係】もあると経験から思っています。

自分から動かなくても自然と人間関係が築かれていく人達は、その人達に何か価値や魅力を感じる人達の方から動いているのだと思います。
ただ有るだけで価値や魅力を感じるような関係は【無償の愛があるとされる親子】や、【お互いに恋愛という特別な感情を元に交際する恋人】など特別な人間関係でのことで、【基本的にはただ有るだけで自分から動かなくても自然と築かれる人間関係は無く、人間関係を築くには自分の方から動く必要がある】と私は考えています。

私の実家では妹の交換留学をきっかけに18年くらい留学生の受け入れをしています。
そのボランティア活動のおかげで英語が苦手な私も色々な国の人達と仲良くなれましたし、海外にあまり興味のなかった私も仲良くなった人達の文化に興味を持つようになりました。

特にアイデンティティーが確立していない高校生の留学生達とホストファミリーは、赤の他人でも心の距離の近い関わりを持つので、留学生達が帰国してからも親戚のような関係が続くことが多いです。
これはアイデンティティーが確立した大学生以上の留学生達とはあまりできない人間関係だと思います。
赤の他人で年齢も性別も違う、生まれ育った国も文化も言葉も違う人達が、親戚のような関係を築くことができるなんて…このプログラムに参加しなければ私は知らなかったと思います。

私の実家が参加している交換留学プログラムの目的は交流です。
若い人達に異文化を理解する機会と、自国の文化を異国で理解してもらう機会を作る為に、学費や渡航費や留学にかかる費用の多くをボランティア団体が負担してくれますので、このプログラムのおかげで経済的な理由から留学を諦めずに済む人もいます。

それに留学生の滞在先になる家庭はプログラムに参加している留学生の家庭とボランティア団体の会員の家庭がメインで、お互いに留学生の保護者代わりとして「自分の子供のように」面倒をみることになっているので、まだ幼さの残る高校生を外国へ留学させる保護者の不安も軽減されているようです。

このプログラムを実施している団体は企業経営者からの募金と企業経営者のボランティア活動で成り立っています。
企業経営で得た利益を社会に還元する目的の団体で、その団体に参加することで企業経営者も【精神的な充足】と【ボランティア活動を通じた出会いにより自然と築き上げられていく新たな人間関係】を得ており、この団体のボランティア活動により利益を受けている人達とは「持ちつ持たれつ」「お互い様」「キブアンドテイク」「Win-Win」の関係が築かれていると私は思っています。

人間には【価値ある存在として認められたい気持ち】や【尊重されたい気持ち】があり、それを【承認欲求】というのだそうです。
【承認欲求】は満たされないと劣等感が強くなりますが、技術や能力の習得やアイデンティティー獲得のモチベーションになり、誰もが持っているのだそうです。
【ボランティア活動から得られる精神的な充足感】とは、ボランティア活動に参加することで他人に認められたり、社会貢献により社会での自分の価値を感じられたり、ボランティア精神を尊ばれたりすることで【承認欲求が満たされる】ということではないでしょうか。

誰もが人間として自然に持つ【承認欲求】により、ボランティアとして【自主的に社会に無償で奉仕をするボランティア活動に参加する】のは、ボランティア活動する側と受ける側が無理のない範囲で満たし満たされる、「持ちつ持たれつ」「お互い様」「キブアンドテイク」「Win-Win」の関係だと思いますし、お金など価値がわかりやすかったり、目で見たり手で触れられる物質と物質の交換だけでなく、物質と精神の交換ができるのは実に人間らしく【ボランティア活動は高度な精神による互助システム】だと思います。

私は誰もが人間として自然に持つ【価値ある存在として認められたい気持ち】や【尊重されたい気持ち】である【承認欲求】から、【自ら進んでボランティア活動に参加する人達】は【利己心と利他心の両立を実現しようとしている人達】で、【自ら考えず動かない人達】や【他人を利己的として、自ら考え動かない言い訳にしている人達】、【人間の利己心という不都合な現実から目を背け、利他心という一方しか認めない人達】より好ましく思います。

ただ【自らの意思で見返りを求めて動き、けれど自分が求めていたものが得られなかった時に不満を感じ、その不満を他人のせいにする人達】は嫌いです。
そういう人達には【自分の意思で行動を選択したことを忘れずに、自分が求めていたものが得られなかったのは自ら選択した行動の結果であることを認め、その責任や原因を他人へ転嫁せず、どうして得られなかったのか考えて欲しい】と思います。
それができない人達が【恩着せがましい人】や【偽善者】などと評価され、それによってボランティア活動やボランティアへのイメージが悪くなっている可能性があるのではないでしょうか。

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この記事は恋愛総合サイトで活動していた仲間とのやりとりで私が書いた文章を編集したものです。
私は「無償の愛が存在するのか?」と考えたように、【自分を犠牲にしても他人の利益を図る】という、人間の【利他心】も「本当にあるのか?」と考えたことがあります。

「人間は基本的に利己的な生き物である」という話を聞いたことがあります。
以下にその話を書きます。

川で溺れている人がいました。
Aさんは溺れている人を助けましたが、Bさんは助けませんでした。

この場合Aさんは善人で、Bさんは悪人に見えますが、実はAさんとBさんの行動の元になっている心理は同じなのだそうです。
AさんとBさんに共通する心理とは【自己防衛】で、【Aさんは川で溺れている人を助けないことで、自責の念を抱くのを避け】、【Bさんは川で溺れている人を助けることで、自分の身が危うくなるのを避け】、AさんとBさんは異なる選択をしたけれど元になっている心理は同じで【自己防衛】だと言う話で、この話を聞いて私は「人の為に見える行動も、実は自分の為の行動の可能性がある」と知りました。

私は基本的に【人間は利己的で、人間の世界に無償は存在しない】と考えています。
けれどそれは【単なる事実であり、それ自体に善悪はない】と私は考えているんです。

シャーデンフロイデの話の時に書きましたが、私は人間が自然に持っている感情や欲求など心理は否定せず、あるがままの自分として社会的には悪と評価される心理であってもその存在を認めることが大切だと考えています。
自然に誰もが持っているものを【悪】として【否定】することが【不自然】であり【間違い】であり【無理がある】と思いますし、それは人間という生き物である【自分を否定し】、【自分を歪めてしまう】と経験から思っています。

人間に利己心があっても、その利己心からは【自分の身が危うくなるのを避ける為に溺れている人を助けなかったBさん】のようなわかりやすい利己的な行動が生じる場合もあれば、【自責の念を抱くのを避ける為に溺れている人を助けたAさん】のような利他心があると思えるような行動が生じる場合もあり、利己心からは利他的な行動が生じる側面もあり、けれどその【利己心から生まれた利他的な行動のみを善として肯定し】、【善とする利他的な行動を生んだ利己心を悪として否定する】のは…なんだか変な気がするのです。
表裏一体であるふたつの心の一方である利己心を悪として否定し、利他心を善として肯定するのは…自分にとって不都合な現実から目を背けているように見えるんです。

シャーデンフロイデと同様に、利己心は誰もが有している心理として認め、有していることを悪とせず、有していることを前提に、自分がありのままに生きる自由だけでなく、他人がありのままに生きる自由も認め、自分と他人のありのままの自由を譲り合いながら生きていくのが社会生活であり、それぞれが心と知性ある人間として自らの言動に責任を持ち、自分達が生きている社会での道徳心や理想と照らし合わせて自ら言動を決定し、その言動を周囲の人達が判断した結果としてその社会での善悪が決まるのだと思います。

人間は誰もが自分の人生を生きていますが、他人と社会生活をしているからには他人のことも考えて生きる必要があり、人間が社会に所属しながら無理なく自然に生きるには、【利己心と利他心のバランス】が重要だと私は思います。

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この記事は恋愛総合サイトで活動していた仲間とのやりとりで私が書いた文章を編集したものです。
親が子供に注ぐ愛情は【無償の愛】と表現されることがあり、【自分を犠牲にしてでも子供を守り育てようとする親】を見ていると、【親から子供への無償の愛】が本当に存在するように感じます。
けれど私は天の邪鬼なので「本当に無償なんて存在するのか?」と考えたことがあります。

人間は霊長類の一種と位置づけられているので動物の一種だと私は思っています。
そして動物は【自分の遺伝子を残すことを目的として生きている】と聞いたことがあります。

もし人間が動物として生きる目的が【自分の遺伝子を残すこと】なら、自分の遺伝子を半分持っている子供は【自分の遺伝子を残す可能性のある命】ということになり、実の親にとって実の子供は【自分の遺伝子を残すという生きる目的を達成する可能性のある命】ということになると思います。

もしそうなら実の親が自分を犠牲にしてでも実の子供を守り育てるのは【自分の遺伝子を残すという生きる目的を達成する為の可能性】があり、実の子供の為に見えて実の親の為の可能性があり、実の親が自分を犠牲にしてでも実の子供を守り育てるのは【無償ではない可能性がある】と私は考えるようになりました。

【無償】を辞書で調べたら【代償・報酬がないこと】とありました。
実の親にとって自分の遺伝子を半分持つ実の子は、【自分の遺伝子を残す可能性がある命】であり、つまり【自分の遺伝子を残すこと】を目的にして実の親が生きているなら実の子供は【存在自体に価値】がある可能性があり、実の親にとって実の子供は【存在自体が有償】なのかもしれないと思うようになりました。

実の親にとって実の子は自分の遺伝子を後世に残し続けてくれる可能性がある命で、その可能性を高める為に実の親は自分を犠牲にしてでも守り育てるのかもしれません。
実の親は自分の遺伝子を後世に残し続けてもらえる可能性を高める為に、自分の遺伝子を後世に残し続けてくれる可能性がある命である実の子供が生き延びる可能性を高める為に、自分の最良だと思うものを実の子供に与えようとするのかもしれません。

実の親にとって実の子供は生きる目的で、実の親にとって実の子供は生きてるだけで価値があり、実の親は実の子供の価値を高める為に自分を犠牲にしてでも守り育て、自分が生きる目的を達成する可能性を高めている…そんな考えが頭に浮かびました。

つまり【親が子供に注ぐ愛情も無償ではなく】、【これから受けられるかもしれない利益に対して代価を支払っている】とか、【先行投資のようなもの】である可能性があるんじゃないかと私は考えているんです。
実の親にとって実の子供が【自分の遺伝子を後世に残し続けてくれる可能性がある命】なら、実の親にとって実の子供の存在自体に価値があるなら、実の子供が生まれたばかりで何もできなくても、何もしてくれない存在でも、実の親は実の子供が存在してくれるだけで愛おしく思うのかもしれません。

これは人間が動物の一種で、人間には動物的な部分があると思っている私が【人間の動物的な部分から実の親子関係】について考えた結果で、人間には他の動物と違う人間らしさもあると思っています。

血の繋がりのない赤の他人の親子の場合は、親が「人の役にたちたい」とか「社会の為に」という気持ちを持っていたり、子供を【自分の思想や財産など、人間として築いたものを後世に残し続けてくれる可能性がある命】として見ている可能性があるんじゃないかと思うんです。
日本では全く血の繋がりがない親子関係は少ないですけど、実子に恵まれず養子を迎えて家を続けていくのは【動物の部分から自分の遺伝子を残したいだけでなく、人間的な部分でも自分を残したい】のかなと。
もしそうなら、人間は動物的な部分からだけでなく人間的な部分でも、親にとって子供は【有償の存在】なのかもしれないと考えています。

けれど私は母からの愛を無償のように感じますし、妹から姪への愛も無償のように感じているんです。
それに血の繋がりのない親から子供への愛にも無償を感じることがあるんです。
私の考えが間違っているのか?私の勘違いなのか?気になってしまい更に考え続けたところ、新たな考えにたどり着きました。
それは【親から子供への無償の愛が成立する条件】があるのかもしれないという考えです。

お互いの恋愛感情を元に特別な異性として認め合い信頼関係を深めた男女の場合は、まるで血の繋がりのある人間関係のような相思相愛の関係が築かれていて、そういう男女から私は母からの愛や、妹から姪への愛のように無償を感じるんです。
けれど【男女間の無償の愛】は交際期間が短い男女からは感じない気がするんです。
なので【男女間の無償の愛】はお互いの恋愛感情から自然と生じたのではなくて、【男女がお互いに理解する努力や、譲り合いや支え合いをお互いに続けた結果】として生じたのではないかと考えています。

恋愛感情は数年で消えると言われていますから、【男女がお互いに理解する努力や、譲り合いや支え合いをお互いに続けなければ長い時間をともにできない】でしょうし、【男女間の無償の愛】が【男女がお互いに理解する努力や、譲り合いや支え合いをお互いに続けた結果として生じる】のであれば、恋愛感情がないお見合い結婚をした夫婦からも無償の愛を感じることにも納得がいきます。

【男女間の無償の愛】のように【親から子供への無償の愛にも成立する条件】があるとしたら?
親が愛しい子供を育てていくうちに、親から子供への愛が無償へと成長するとか?
親は子供に物質も精神も色々と与え守り育てていきますけど、育っていく子供からは親も色々と与えてもらいますから、その繰り返しにより変化するとか?

もしそうなら【親から子供への無償の愛は存在する】ことになりますから、私が母からの愛や、妹から姪への愛に無償を感じるのは勘違いではなくなりますし、【親から子供への無償の愛が自然に生じるものでない】なら、【親から子供への無償の愛に成立する条件がある】なら、【その条件が満たされることで無償の愛が生じる】なら、【血の繋がりのない親から子供への愛に無償を感じる】ことにも納得がいき、私の中から矛盾がなくなります。

これらのことから今の私は【親から子供への無償の愛】も、【男女間の無償の愛】も、【自然に生じるのではなく条件が満たされる必要がある】と考えるようになりました。
もしかしたら【無償の愛】は【生きてるだけで価値がある】とか、【存在しているだけで価値がある】とか、そういう【特別な人間関係において、一定の条件(お互いに理解する努力や、譲り合いや支え合いなど、与え合うこと)が満たされることで生じる】のかもしれないと考えるようになりました。

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この記事は恋愛総合サイトで活動していた仲間とのやりとりで私が書いた文章を編集したものです。

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編集するにあたって関連する情報をネットで検索していたところ面白そうな本を見つけました。

利己的な遺伝子 <増補新装版>/リチャード・ドーキンス

¥2,940
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この本は引用で一部を知っているだけで未読でしたので読んでみようと思います。
男性でも女性でも恋人によって自尊心を満たされることは幸せなことですし、彼女が彼氏を立ててあげて、彼氏の自尊心を満たしてあげることは良好な関係を築くのに大切だと思います。

女性向けの恋愛コラムを読んでいたら下記のような文章を見かけました。
「女性なら三歩下がって慎ましく」
「男性の理想を叶えてあげましょう」
「自分を優先してくれるあなたの心配りに彼は心地よさを感じます」

確かに彼女が自分を尊重してくれれば彼氏は嬉しくなると思いますが、恋人に自分を尊重してもらえたと感じれば嬉しくなるのは男性だけではないと思いますし、恋人を尊重する為であっても「あなたの好きなようにして」ばかりも問題になると思います。
恋人に「楽したいだけなのかな?」と思われることもあるでしょうし、一方が「あなただったら何でもOK」の意味で発言していても、一方は「自分だから何でもOK」ではなく「自分とのことはどうでもいい」や「自分に興味ない」「一人で勝手にして」の意味に感じるかもしれません。
そんなふうに感じたら男性でも女性でも自尊心は傷付きますし、寂しい気持ちになると思います。

恋人間の特別であるエッチも自尊心に関わってくると思います。
エッチは性差が大きい行為ですが、恥ずかしい気持ちに性差はないと私は思っています。
一般的に女性は男性にリードして欲しいものでしょうけど、男性にも恥ずかしい気持ちがあること、男性にも求められたい気持ちがあること、そういう気持ちには性差はないことを女性は理解してあげる必要があると思います。

恥じらいを失った女性に魅力を感じる男性がいるかはわかりませんが、羞恥心から自ら動かず受け身でい続ける女性より、恥ずかしさを我慢して自分の為に動いてくれる女性の方が魅力的なんじゃないかなと思います。
具体的な行動は男性によって好みの差があり、性に対して積極的な女性に引いてしまう男性もいる為、男女の関係性が浅い段階では女性から動くのは難しいとも思います。
男性には女性が性に対して積極的になった時に、それが男性を思う気持ちからの行動の場合、引いたりせずに受け止めてあげて欲しいと思っています。
男性に引かれた経験は女性の心を深く傷付ける可能性がありますから。

たぶん男性は羞恥心のある女性が自分の為に恥ずかしいのを我慢してくれてるとか、羞恥心があるのに自分のことが大好きで我を忘れたかのように夢中になってくれるとか、そういうことに特別を感じて自尊心が満たされるんだと思います。
そう思うと男性が女性のオーガスムに拘るのは自然なことなのかもしれないと思います。

とはいえ、女性のオーガスムに拘る男性の心理に私は恐怖感や不快感を感じるので、自然なことと理解はできても未だに好ましく思えずにいます。
今まで男性を理解しようと努力してきましたが、前より理解が深まっても苦手意識はあまり変わっていない気もします。

他にも女性向けの恋愛コラムでは「男性にとって女性のワガママやリクエストに応えることは、自分の主導権を発揮できたと思えて気持ちがいい」というような文章を見かけます。
ワガママという言葉はコラムの娯楽性を高めているのかもしれませんが、読み手には理解しづらく誤解を与える可能性がある言葉だと思いました。

腹黒いことを書くなら、女性はお願い(コラムでのワガママ)を男性にすることによって、男性の自尊心を満たしてあげることにより、男性を利用することもできますよね。
これは恋人でない男性にも有効ですし、上手な女性は恋人でない複数の男性からその男性のお金や時間や知識など、色々なものを男性の意思によって貢がせることができます。
悪意がある女性もいれば、悪意なく無意識でしている女性もいるようです。

男性が女性の下心を理解した上でお互いに利があるとか、男性にも下心がありあわよくばの投資として貢いでいるとかなら構わないと思います。
お互い様ですから。
でも女性の下心に気付かずに貢いでいる男性はかわいそうですし、同性は同性の下心に気付きやすいので、女性の下心に気付かずに貢いでいる男性は女性達からかわいそうな男性という評価だけでなく馬鹿な男として評価されることもあり、男性には女性へ美しさを求めるだけでなく女性の醜さを見抜く力も身に付けて欲しいと思います。

現代の日本では男女平等が理想とされています。
性別による差もありますし、男性が求める女性らしさ、女性が求める男性らしさは変わらない部分もありますが、男性だから〇〇でなければならない、女性だから〇〇でなければならない、という時代でもないと思います。
男性だから、女性だから、ではなく男女ともに一歩下がって相手に譲る気持ち、自分の考えや思いを伝える努力、その両方が必要なんだと思います。

恋愛感情をもとにお互いに唯一無二の特別な存在として認め合い付き合う恋人とは、お互いの自尊心も満たし合う関係でありたいです。

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この記事は恋愛総合サイトで活動していた仲間とのやりとりで私が書いた文章を編集したものです。

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私は男性や恋愛に関心が低く、恋愛の優先順位が低いタイプです。
若い頃ほどその傾向がありましたし、そういう自分を理解しておらず、男性と交際する時に問題を起こす元になっていることに気付いていませんでした。
私は悲しい思いをさせた側でもあり、悲しい思いをさせられた側でもあります。

友達にも男性や恋愛に関心が低く、恋愛の優先順位が低いタイプがいますが、それぞれに「好きで付き合っている男性を苦しめたくはない」という思いがあり、付き合う前に男性の恋愛観を確認するとか、他のことよりも優先したいと思える男性のみと付き合うとか、恋人を苦しめない為の方法を模索しています。

結婚する時は婚姻届を提出しますし、結婚式では「病める時も健やかなる時も…」など神様や人の前で誓い合ったりもしますが、恋人になる時は普通は口約束で契約書などありませんし、契約の内容を確認しない口約束ではお互いに思い込みなどあるのが当たり前と考えて、付き合う前にお互いの恋愛観を確認し合うのが付き合い始めてから「こんなはずじゃなかった」とならない為には必要だと思っています。

恋愛の優先順位が低い人は付き合う前に相手に話をしてあげて欲しいです。
相手に恋愛の優先順位が低いと話さずに恋人になると、相手は「こんなはずじゃなかった」と悲しみ、お互いに好きで恋人になったはずなのに「なんで?」「どうして?」と苦悩する可能性があると思います。
恋愛の優先順位が低い自覚がないのであれば、せめて気付いた時点で恋人に説明してあげて欲しいと思っています。

私の本音を書けば自分の趣味や友達関係を制限されたくはありませんが、恋人から寂しい、悲しい、満たされない気持ちを与えられたくないですし、恋人にも寂しい、悲しい、満たされない気持ちをなるべく与えたくないです。
恋人も友達もどちらも大切ですが、【複数人いてOKな友達】と【お互いに1人だけと約束している恋人】を同じと考えることはできないですし、恋人から与えられた寂しさ、悲しさ、満たされない気持ちは恋人によってしか解消できないと思うんです。
それに友達とはしないことを恋人とはするのが普通なので、やっぱり【恋人と友達は異なる関係】だと思います。

恋人になる前に相手に【恋愛マニフェスト】を渡すのが普通になったら面白そうですけれど、今の世の中には【恋愛マニュフェスト】はありませんから、私は相手と恋愛の優先順位や恋愛観をお互いに確認し合ってから付き合おうと思います。
恋愛感情をもとにお互いに唯一無二の特別な存在として認め合い付き合う恋人とは、お互いに気持ちを満たし合う関係でありたいと思っているからです。

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この記事は恋愛総合サイトで活動していた仲間とのやりとりで私が書いた文章を編集したものです。

【追記 2014-02-25 11:31:01】
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