私は時々先生をする。生徒はバラバラ。
学生から社会人、国籍も多様。
それに順応しながら授業を行うのは難しいし、緊張する。
性別だって気を使わなければならない場面があるので、「彼」「彼女」など、限定的な性別をさす言葉には気を付けなければならない。
私は時々生徒たちに日本語を教えている。
1人対複数で人前に立つのは威圧感があり、どことなく心細く感じてしまうが
ここで怯んでしまってはいけない。
何とか第一声を発する。
この授業の始まりが一番緊張するのだ。
この挨拶一つでここにはどんな生徒が多いのか、反応が良いクラスなのかそうでないのかがなんとなくわかる。
「ああ、あの子は眠そうだな。大丈夫かな」
「お、この子は一生懸命にやってくれるぞ」
「大丈夫かなあ。時間足りるかなぁ。」
なんていろいろと考えながら授業を進めていくのだ。
実際に教壇に立つ前に何時間も、何日も費やして考えた授業の流れが本当に適しているのかは、やるまでは 全くわからない。
恩師はよく「授業は生き物だ」と言っていた。
私がそれを痛感したのは、
日本と気候が少し違う国で授業をした時のことだ。
授業内で「ドライヤーが壊れました」というフレーズを練習したときに、
「ドライヤーとはなんですか」と聞かれたことがある。
たいていの人は「髪の毛を乾かす機械だよ」と教えるだろう。私もそう教えた。
しかし生徒たちにはいまいちイメージができていないようだった。
イラストを書いて何とか説明したが、
生徒のうちの一人が
「それは服を乾かすためのものだと思ってました」と教えてくれた。
それは私にとって想定外の質問で、日本にいる間では絶対に予測できない質問だったと思う。もちろん、ある程度の文法や単語の質問は想定して、答えを用意していくが
その用意で足りたことはなかった。(ベテランになると違う)
ああ、授業は生き物だ…。と、私は思った。何が起こるかは最後までわからない。
自分が普段何も考えずに使っている言語を教えるというのは難しい。
私が今までで一番理解させるのに苦労したのは助詞の「は」「が」の使い分けだ。
「私はスーパーに行きます」
「私がスーパーに行きます」
「昨日、妹があの店でジャケットは買いました。」
「昨日、妹があの店ではジャケットを買いました。」
この違いを学習者にわかりやすく、文法的に教えることができるだろうか。
また「覚えるしかない」言葉の違いも多数存在する。
一つ例で挙げると、英語は自動詞と他動詞を目的語があるかないかで判断できるが日本語はそうはいかない。
「破る」「破れる」「倒す」「倒れる」など、どっちがどっちなのかは頑張って覚えるしかない。
「本を破れる」「木を倒れる」のような誤用はよく見かける。
ほかにも単語でいえば「書きづらい」と「書きにくい」の違いは説明できるだろうか。
これらをニュアンスではなく、はっきりとした使い分けを教えて上げなければならない。その説明に私は何度も頭を悩ませてきた。
しかし、その分、学習者目線でしかわからなかった日本語の難しさや奥深さを知ることもできた。苦労が多いぶん、伝わった時の嬉しさも多いのがこの仕事の特徴だと思う。
どうすればより親しみを持って日本語の授業に取り組んでくれるのか、
どうすれば伝わるのか、日常でもポッと使ってもらえるようになるのか。
そんなことを考えながら私は時々先生をしている。
実際に伝わった、理解してもらえた喜びはこの上ないし、
長く付き合うことで徐々に、じわじわと上達していく日本語を見ているのも嬉しくあった。
そしてまた今までろくに授業を聞いていなかった私が、こうしてたまに教壇に立って授業をすることで、かつての先生方に申し訳ない気持ちがにじみ出てしまうのであった。