先日、暇つぶしに新潟県十日町市を散歩していたら、町ですれ違った学生に「こんにちは」と挨拶をされました。何も考えずに普通にすれ違おうとしていたので、私の返事は明らかに不意を突かれたというような小さめの声になってしまいました。
しかし、このような経験は初めてではありません。かつて、山梨県大月市や、長野県南牧村を訪れた際にも、道ですれ違った地元の方に挨拶をされたことがあります。都会に住んでいる私には考えられないことですが、もしかしたら小さな町に住んでいる方からすれば当たり前のことなのかもしれません。
でもよく考えてみれば、見知らぬ人にあいさつをする行為というのは別におかしなことではありません。私はマンションに住んでいるのですが、マンションの中ですれ違った人とは、たとえ面識の無い人であっても挨拶をするのは当然だし、一軒家に住んでいる人でも近所の人と挨拶をするのは当たり前のことでしょう。そう考えれば、何も不思議ではないのですが…、
私たちのように都会に住んでいる人間には、混雑した街中では挨拶をしない…というかイチイチしていたらキリがないから出来ない、という地方とは異なる事情がありますね。そこが「挨拶をするかしないか」の境界線。私たちは無意識のうちに挨拶の境界線というものを心の中に引いてしまっているのです。言われてみれば当たり前のことかもしれませんが、この無意識のマナーというものは、ちょっぴり不思議であるような気もしますね。
さて、この無意識のマナーについては何ら問題はないのですが、私には意識のマナーのほうについて1つ思うことがあります。
私は父親が札幌出身なので、年に何度か札幌に訪れる機会があるのですが、札幌の地下鉄に乗るといつも「専用席」という空間を目にします。「専用席」といってもかつてのアラバマ州のような差別的な意味合いではなく、関東で言う優先席に多少の強制力を持たせた感じの座席です。
関東の優先席では、そこに若者が堂々と着席するのはおろか、携帯電話を使用したり、譲るべき人がいてもスルーしたりと、存在価値を疑うような効力を失った空間と化していますが、「専用席」には混雑時でも健康そうな人は誰も座りません。治安の悪い関東の優先席を見慣れているので、この光景にはいつも感心してまいます。
私は試験監督のバイトをすることになったのですが、その面接の時に、カンニング等の不正行為を防ぐためには、試験監督が緊張感のある空気を作ることが大切だということを教わりました。つまり、安定した秩序を保つためには、人々の意識改革を求めるだけではなく、先に環境そのものを整える必要があります。例えば、試験中にうるさくお喋りをしたり、試験中とは思えないような空気の中で、カンニング禁止だけを訴え続けたとしても、それは無意味でしかありませんよね。
「優先席でマナーを守ろう」はそれと同じようにしか聞こえないのは、私だけでしょうか。もちろん、ゆずりあいの精神というのは人として最低限持つべきものではありますが、テストの例のように意識改革だけを求めてもあまり意味がない。優先席なんて甘い言葉ではなく、「専用席」と強めに言ってしまったほうが全ての人々のためになるんじゃないかと、私は思いますがね。