新-帝王切開物語(2) 物語の始まり | マーブル先生奮闘記

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マーブル先生の独り言。2024年1月1日の能登半島地震後の復興をお祈り申し上げますとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。

帝王切開術発祥之地記念碑 (埼玉県飯能市)

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       さあ、1,852年4月22日、午前10時、埼玉県の片田舎にタイムスリップ。
        (1852年、嘉永5年、明治天皇が生まれ、黒船来航の1年前)

                手術記録

日時:     1852年(嘉永5年)6月12日(旧暦4月25日)、午後。
手術場所:   本橋家の離れ、埼玉県秩父郡我野村正丸。
術前診断:    遷延分娩、横位、子宮内胎児死亡。
患者:     本橋 み登、33歳、経妊、経産数不明。
術式:     子宮截開(せっかい)術。臍部左側縦切開
術者:     伊古田純道、50歳。
助手:     岡部均平、37歳。
麻酔:     なし(実際は通仙散を使用か?)
手術時間:   小1時間。
同意書:    あり。夫:本橋常七。
術後診断:   横位、子宮内胎児死亡。


 旧暦4月22日、お産が始まったから来てくれと言われ本橋家に産婆のとよ(65歳)が到着したのは昼ごろであった。とよは実際その日は朝から二つのお産をこなしており、かなり疲れていた。いつものように本橋家に着くと、とよは本橋み登の分娩の準備をし、診察をした。
 子宮口は柔らかく、手を入れれば容易に広がった。ただ、いつも触れる胎児の頭は一向に触れることはなかった。「かなりまだ高い所にいる、とにかく下がってくるのをまとう」と、とよは思った。
 ところが、いつもと違って、このお産は一向に進行せず、翌日朝になっても(旧暦4月23日)み登の分娩の状況に変化はなかった。しかし、これ以上分娩技術への手段を持たないとよにはただ待つだけしかなかった。
 とよが内診をしても「子宮の入り口は柔らかいのに、赤ちゃんの頭は触れない、どうしてだろう」。内診しても触るのは赤ちゃんの足と手だけ。とよはお母さんのお腹側に回って、中の赤ちゃんを回転させ、押してみた。でも硬く触れる胎児の体はピクリともしない。
 昼ごろになると、膣から赤ちゃんの手が脱出してしまった。それに引き続いて赤ちゃんの臍帯も出てきてしまった。
 それから30分もすると脱出した赤ちゃんの手から血の気が引き、ぐったりしてきた。ひっぱっても、押しても赤ちゃんは動かなくなった。しばらくすると、赤ちゃんも死んでしまった。
 ただいたずらに時間だけが過ぎ、とよは途方に暮れ、そして、憔悴して4月23日の夜を迎えた。その日の夜、産婆のとよは(秩父郡我野村正丸住)は今後のことをじっくりと考えた。「明日になったら、村の近くの秩父郡我野郷南川村(現飯能市)の岡部均平先生がいる。あの人は産科にも心得がある。いい先生や。とにかく相談しよう。それまでは待つしかない。本当になにもできないし」と。み登の膣からの出血はそれほどでもなかった。