二章『精神現象学』の最初の六章の要約p.53まで
観想ではなく、欲望によってしか自己意識は開示されない。
真の哲学はカント哲学のように観想による意識の哲学ではなく、自己意識の哲学であり、この哲学は行動的で否定的な「欲望」によって自己意識を認識する。

アレクサンドル・コジェーヴ, 上妻 精, 今野 雅方
ヘーゲル読解入門―精神現象学を読む

第一章

主と奴の弁証法
承認のための闘争がおこり、主と奴にわかれ、主が奴から承認を勝ち得、奴は動物もしくは物となる。

主の欲望を満たす為、奴は労働にいそしむが、自然と世界を作り替える労働に携わることで奴は歴史の主体となることになる。

柄谷 行人
終焉をめぐって

『詩的モダニティの舞台』等によく言及されているコジェーヴのヘーゲル読解をおおまかにでもつかむために読んでいる。



読んでいて気になったのが、自由主義に関する記述(p.193)。シュミットによれば、民主主義と自由主義は対立するものであるという。


 現代リベラリズムについて盛山和夫の『リベラリズムとは何か』をもとに発表したが、現代リベラリズムには国家を相対化する視点が全くなかった。参考に読んだウォーラーステイン『アフターリベラリズム』では、盛山、グレイの古典的リベラリズムと現代リベラリズムの腑分けなどとは全く関係なく、単にリベラリズムを保守主義と社会主義の狭間で中庸をとって漸進的な社会の進歩を奉じる国家の存在を前提にしたイデオロギーとして位置づけている。



こういた自由主義、リベラリズムに関する言説を、まだいまいち理解できていないので、それの勉強もしなければいけない。

綾目 広治
脱=文学研究―ポストモダニズム批評に抗して  1999
所収「小林秀雄――その思想論、歴史論、言語論」

小林秀雄の批評は硬直したマルクス主義者たちの素朴実在論的な思想に矛先が向けられている。小林秀雄の批判は正当であり時宜を得たものでもあったが、その反面、非合理主義に陥ってしまっている。

『本居宣長』(1976-7)においては、現象学的知見が取り入れられている。

理論的認識の対象である客観的世界よりも、情状性に彩られた生活世界の方が人間の認識にとって根源的であるという考え方は、後期のフッサールの生活世界の現象学からのものである。

小林は生活世界における認識(直接経験)を、分裂のない「全的な認識」だとする。しかし、現象学的に言って直接経験が即「全的な認識」であるということはありえない。

読了


『詩的モダニティの舞台』のp.46の下に引用した部分が難しかったため読んでみた。 

「・・・絶対的に芸術否定的な「群衆」のなかにおいて、逆説的に詩(ポエジー)を発見するということが、口語自由詩の――そして、散文=小説の――「宿命」なのであり、その否定性の動力が「批評」と呼ばれるがゆえに、批評はつねに詩(ポエジー)を援用しなければならないのだ。「様々なる意匠」において、小林秀雄がマラルメを持ち出しながら、それをいわゆる「象徴」の問題――アーサー・シモンズにおいても曖昧なままに放置されていて問題――には還元せず、マラルメら象徴主義の「問題は正しくももっとも精妙なる『写実主義』の問題ではないか」といったのは、小林がまさしく「詩と散文」というディレンマのなかの、新たなイデオローグであったことを告げているのである。」




途中

50「私には群衆が絶対に必要であった」というところで成り立つ詩概念(ポエジー)は、もっと見やすいレヴェルでは、「郷愁」としてあらわれる。

詩的モダニティの系譜 2節(~p.41)読了

自然主義とロマン主義の二者択一で萩原朔太郎を捉えることは出来ない。


犯人=探偵という図式――芸術否定において芸術家とならねばならないディレンマ


大正的なものから昭和的なものへ

岩波講座日本文学史〈第9-16巻〉 (1958年)

『岩波講座 日本文学史 第十二巻 近代Ⅱ』所収「現代史の展開」安東次男
(p.11)昭和10年代、十代かあるいは二十代の初めにあった世代は、詩人によってよりは、小林、保田両批評家によって詩心を呼び起こされた。
一方、一世代前、本田秋五らの世代は、プロレタリア文学青年で、小林らの書くものには共感しなかった。(p.15)


メモ

(p.13~14註6)「・・・朔太郎が昭和十年代から二十年代にかけてふたたび青年たちの心を捉えたのは、彼の『コギト』との結びつきにおいてであった。私はこのことを昭和詩史の中で極めて象徴的なことと考える。と同時に、朔太郎の名も、歴史のゆがみはゆがみなりに、その中で不朽の物となったと考える。なおこれらの点については保田与重郎「現代と萩原朔太郎(『コギト』昭和十一年九月――旧版「日本の橋」所収)、萩原朔太郎「わがひとに与ふる哀歌――伊藤静雄論」(『コギト』昭和十一年一月――創元社版「全集」第七巻所収)、春山行夫「日本近代象徴主義詩の終焉」(『詩と詩論』第一冊、昭和三年九月創刊)などを併せ読まれたい。

(p.14註7)「小林や保田がしについて語るということは、詩人の生き方について語るということであり、具体的な詩作品について語るということではなかった。その点、彼らが、現代詩をよんでいないから、また現代詩はわからないから、現代詩については語らない、というのは口実にすぎない。たとえば小林はランボーやボードレールを語るばあいでも、彼は一つ一つの作品については何も語ってはいない。この点彼が小説を語るときはちがうのである。こういう態度が、日本の自然主義文学の根底とも考え合わせて、いかに日本的なものであったか、理解できよう。昭和十年代の青年たちが、小林の批評によって詩を求めたということも、同じことである。この点は、保田のばあいについてもほぼ同様のことがいえよう。」

米倉 巌
萩原朔太郎論攷―詩学の回路/回路の思索

「序にかえて」(p.9) 「第一部 第一章 『月に吠える』の「序」に関する詩論」(p.37) 読了


著者の視座を踏まえておくと、これから他の論者と論を比較するときに指標として役立つと思うので、ここにまとめておく。


一、朔太郎詩スタイルの変遷(序 p.9~26)
①文語体(感傷)→②口語体に文語脈を残映した混淆体(ヴィジョン)→③口語体〔口語体に文語残映〕(ペーソス)→④口語体(形而上学的構築性)→⑤文語体(憤怒)→⑥文語体(絶叫)


二、日本近代詩の時代区分について(序 p.29)
日本近代詩が内容(近代的自我の覚醒)、文体(口語自由詩)の両面において完成されたのが1917年(大正6)の萩原朔太郎作『月に吠える』である。
日本近代詩の内容面における出発点として、島崎藤村『若菜集』(1897、明治30)があげられている。この作品にすでに、近代的自我の覚醒が認められるからである。
口語体の詩の完成はそれより遅く、1907年(明治40)川路柳虹 「塵塚(はきだめ)」を待たなければならなかった。自然主義の写生を詩法として実現したものである。
著者は近代詩と現代詩に区別を設け、その接点を第二次大戦後の「荒地」派に求めている。(p.31論拠は省略)


以上のように設定される近代詩を、史的に見るために四つの磁場を設ける。(p.32)
1.1917年(大正6)・・・『月に吠える』を中心とした前後。1914年(大正3)に高村光太郎『道程』、あるいは福士幸次郎『太陽の子』などが口語体の詩集として刊行されたが、朔太郎の詩はそれらとは、幻視、幻想といった観点から全く異なるものであった。


2.1926年(大正15)・・・大正十年代の『日本詩人』への結集、関東大震災を契機とする、ダダイズム、シュールレアリズム、『赤と黒』の運動等をバックグラウンドとする、近代詩上の歴史的事件の諸々(中野重治「詩に関する2,3の断片」や、「郷土望景詩に現れた憤怒について」の登場。イマジズム(北川冬彦、吉田一穂)、モダニズムの走り、伊藤整による口語詩の新技法、金子光晴『水の流浪』等)
朔太郎の影響を受けた加藤介春『眼と眼』、『佐藤春夫詩集』、サンボリスト『三富朽葉詩集』等、近代詩と現代詩の接点を担う位置を想定できる年でもあった。
この年を朔太郎の「詩索方法」の分水嶺とする。


3.1935年(昭和10)前後の日本浪漫派、『四季』派。シェストフのドストエフスキー、ニーチェ論『悲劇の哲学』が翻訳される。
文体の面からは、中原中也、立原道造のソネット定型詩の方法。


4.1945年(昭和20)『荒地』派を中心とする戦争体験がベースの重い「意味の詩」


著者は、1926年(大正15)を近代詩から現代詩への接点として論じる、としている。(p.33)