澤正宏、和田博文編『都市モダニズムの奔流――「詩と詩論」のレスプリ・ヌーボー』 翰林書房 一九九六年 五七頁

和田博文「都市モダニズム文化とポエジー」


春山行夫「日本近代象徴主義詩の終焉」のego-symbolismeとcubi-symbolismeの区別。

萩原と日夏耿之介は前者、佐藤一英と三富朽葉が後者

詩の様式的純粋化の中に客観化された「ポエジイ」が現れるということを、主観的な立場に立つ萩原は理解できなかった。cubi-symbolismeの方にモダニスムの萌芽がある。

モダニスムとサンボリスムは言語を変形、操作可能なものとしてみることは同じだが、モダニズムのほうが、対象化が徹底している、と見ることができる。



p.287「猫町」昭和十[一九三五]年八月『セルパン』

昭和十年前後の現実重視の状況下での、猫町の実在性の言挙げという形での抵抗。


p.282「主人公の「私」にとって、自らの心の解放は同一空間内の移動とは異なった、別次元への転移に求められる。」

猫町本文「昔はただそれの表象、汽車や、汽船や、見知らぬ他国の町々やを、いめーぢするだけでも心が躍つた。しかるに過去の経験は、旅が単なる「同一空間に於ける同一事物の移動」にすぎないことを教へてくれた。何処へ行って見ても、同じやうな人間ばかり住んで居り、同じやうな村や町やで、同じやうな単調な生活を繰り返して居る。」

*萩原の「自転車日記」(『日本への回帰』”随筆と身邊雜記”の章にある、初出は『時世粧』第六号・昭和十一年十一月)は夏目漱石の同タイトルの小品の影響を受け、大正十年三六歳の時の実体験に取材した創作であると思われる。

『日本への回帰』の”随筆と身邊雜記”の章の中でこの文章はとりわけ、場所や日時が不明瞭な印象をまとったものの一つである。

萩原の日記は大正三年の一、二月のものしか残っていないが、これは口語で書かれている。それに対し「自転車日記」は漢文書き下し調で書かれている。また、夏目のものには日付は西暦一千九百二年年忘月忘日と年代を明確にするのに対し、萩原は年は明示せず、十二月二十日、十二月二十一日、一月十日、一月十五日、三月一日の出来事として描かれている。場所も夏目は「ウィンブルドン」、「ブリチッシュ・ミュジーアム」などの固有名、地名を出すのに対して、萩原は「某ノ町」、「近縣ノ町」という風に、場所を明示しない。
>漢文書き下し体の不透明さが、日記全体をもうろうとした夢幻的な雰囲気を醸し出している。


荒川洋治は、自転車を一般社会と見立て、自転車にうまく乗れない語りの主体を、萩原の社会に適応うまく適応出来ない孤高の詩人の悲哀を見ている。

伝記的事実を見てみると、
大正一〇[一九二一]年三六歳のときに萩原は自転車を習っている。
(ⅩⅤ388)「この頃から翌年にかけて自転車を習う(乗車は巧みであった)。」
テクストには語り手、父、弟が出てくるが、
朔太郎は明治十九[一八八六]年生まれで三六歳
父の密藏嘉永五[一八五二]年~昭和五[一九三〇]年 当時七〇歳
弟の弥六は明治三一[一八九八]年生まれで、当時二四歳である。



*「日本の使命」は軍人会館で講演されたものある(※軍人会館は現在の九段会館のこと).
昭和十二[一九三七]年九月二六日、九段軍人会館の時局文藝思想講演會で「日本文化の現在と将来」と題して講演(『いのち』十一月号に掲載)。(ⅩⅤ 437)
朔太郎が一般聴衆向けに講演をしたのは、昭和十一[一九三六]年六月二〇日、午後二時より二〇分間 JOBK大阪中央放送局で「蕪村の詩精神」と題して放送されたものが最初であると思われる。さらに同日夕刻、大阪毎日新聞社講堂で催された「文藝の夕」」で、「詩と文化」と題して講演を行っている(ⅩⅤ 427)。


>一般聴衆向けに講演することは、今まで萩原がしてきた文人相手のスピーチとは全く志向を異にしただろう。文芸の話題をあまり深く語っても聴衆はついてこれないかもしれないので、おのずと講演の内容はわかりやすいものが選ばれる。聴衆の感情のフックに引っかかる論旨にしなければ受けはとれない。そのため最大公約数に乗っ取った話題が選ばれることになり、前衛的な話題は避けられることになる。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/card768.html

下宿の婆さんに自転車に載るように進められ、練習と度重なる失敗、衝突事故の顛末を滑稽に描いた小品。

「吾輩は猫である」のような戯作調(?)で書かれている。

萩原のものに比べ、場所、年代が明確に示されている。


ちくま日本文学全集の萩原朔太郎の巻に自転車日記が掲載されているので、荒川洋治の解説に目を通しておきたい。


いかに思想家が、いつでも彼の「主義」ばかりを言ふと思ふか。たとへば私の書物における各項が、どれでも皆私自身の人柄に合つた私自身の意見や熱望ばかりを主張したものと思ふか。ああ迷惑にして世話のやける読者よ。諸君は小説をどう読むか。いっぺんの小説に現はれた幾人かの人物が、すべて皆一様に作者の理想的人格を象徴した者と思ふか。勿論それらの人物は、どれも作者の性格から抽象された一部の人格にはちがひないだらう。(何故といつて、どんな小説家も自分の性格中に存在しない人格を描出することはできないから。)けれどもそれらの中には、作者自身にとつて甚だ願はしくないもの、むしろ彼の倫理学に於ける正面の悪漢であり、むしろ彼の統一された人格中に於ける異分子と見るべき者すらが描き出されて居るではないか。そしてこの事実は、同様にまた我等思想家の作品に於ても――。げに我等の書物の中では、明らかに著者に反対する一つの精神が、さかんに声高く彼の真実(真実に傍点)をしゃべつて居る。

萩原の詩論はどのような経緯をたどったのか。「日本への回帰」の3年前に出された詩集『氷島』と平行して書かれた『純正詩論』までを見ていく。
『氷島』の自註としての性格ももつ「日本への回帰」の内容の奇妙さを論じるに当たって、『氷島』の奇妙さを論じた守中の論考は前提に出来る。


以下抜き出しおよびメモ

守中高明『存在と灰』「朔太郎あるいは「退却」の教え」

『月に吠える』(大正六[一九一七]年)以来萩原は「口語」と「詩」とを日本語において結びつけることを最大の目標にしていた。しかし詩人の努力は詩人自身にとって納得のいく形では実らない。それは日本語そのものに欠陥があるからだ。


詩がフォルムを持たないといふことは、今の詩人にとって、真に最大の苦悩である。すべての詩人の悩みと努力は、如何にして今の日本の現代語から、韻律や形式を発見すべきかといふ一事にかかつていゐる。普通に自由詩と称されてる文学が、実は単なる「行分け散文」の擬体にすぎないこと。正しい批判において、詩と呼びうることのできないものであることは、今日の詩壇に於て既に一般から常識されてる。しかもこれに代るべき新しい文学は、未だ何処にも創立されてゐないのである。(「現代詩の鑑賞」、Ⅸ 五二-五三


日本の詩人の不幸は、実にその韻文を所有しないといふこと、韻文の空白時代に生活してゐることに存している。現在する日本詩人の全熱情は、実に「韻文の創造」といふ一事のみに向けられてゐる。なぜなら韻文の創造は、それ自ら「詩の創造」であるからだ。(「僕の詩論の方式と原理について」、Ⅸ 七六)


「フォルム」=「形式」の空白と、それゆえの絶えざる「発見」の必要性――新体詩以後の日本語で書かれる詩が避けがたく孕むこの困難は、朔太郎による定式化から今日に至るまで、つねに不変だと見なすこともできるだろう。
「口語自由詩」という概念は、そもそも「文語」、「定型」からの差異としてしかあり得えないため、「口語自由詩」の場所は絶えざる更新によってしかもたらされず、常に現在性、新鮮さが求められる。だから「新しい定型」といったものはあり得ないことになる。
(そのことにどれだけ萩原は自覚的だったのか)

118
青猫の「自由詩のリズムに就て」(大正一二[一九二三]年)「色調韻律」の話はとばす
121

123「自由詩のリズムに就て」(大正一二[一九二三]年)における性急な理論家の作業の帰結として、実際に実現される作品と理論とのあいだの祖語やずれに躓くことにもなる。
「自由詩の矛盾概念」(大正一五[一九二六]年、Ⅵ二〇一-二二〇)
定形律から解放された「自由詩」がその形式的根拠に据え得るのが「内部的節奏(インナアリズム」あるいは「匂ひの韻律」であることを再び認識したうえで、しかしその「本質」は「散文精神に立脚して居る」と詩人は言う。


124我々にしてもしこの左翼思想、即ち詩の散文化傾向をもたないならば、我々は既に時代遅れの作家であり、現詩壇に生活する意義を持たない。なんとなれば現代の時代思潮が、それ自ら散文的のものであり、そのプロゼックなる情操の中にのみ、我々の詩が発見されるのだから。(Ⅵ 二一一)


「詩の情操に於ても表現の言語に於ても」「美を感ずるもの」は「何等かの意味に於て散文的なものに限られる」というここでの朔太郎の言葉が告げているのは、自然主義文学によって境界を画定された時代における、詩概念のまさしく形式的根拠の消滅であるだろう。ここでは、もはや韻律概念の拡大によっては同定できず指示できない「精神」の状態にまで詩概念は追い詰められている・・・124


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
以上のような認識から、萩原は、散文=言文一致体のうちに詩を定率することを目指しつつ、文語体の積極的評価をするという矛盾に陥る。この矛盾から『純正詩論』の諸テーゼが生まれる。
・・・
127「時代の情操」=散文精神を生きるからには、詩人は古い文語脈に回帰することはできないはずである。
かといって、口語体も不完全であるから、詩作には使えない。このジレンマになやむ自らを「時代の犠牲者」といい、そのような時代のなかで国語の創造者であることを悲壮な雰囲気を交えつつ自負する。
(この不可能性を歌い上げるような姿勢がすでにイロニーを孕んでいて、それが後述の不可能性の必要性=可能性への反転につながる。)

そして、
127みずから記述したこうした欠如と不可能性の図式から、奇妙なことに、詩人は一つの絶対的な要請を導き出す。
全面的な不可能性を、全面的な必要性=可能性へと強引に反転させるのだ。
新しい「韻文の創造」 =「新日本国詩の創立へ!」
128ここでは、「自由詩」=言文一致体による詩という理念はすでに「新しき韻文の建設」へと後退している。

129今ここにある言語の状態を否定しつつ、不可能な形式を先行措定することによって、その存在だけは決して疑われることのない「詩」概念を保存し「国家」の概念とともに(だがこの結びつきはいかなる水準にあるのか)生成させること――それが、『純正詩論』における朔太郎のプログラムである。

129このような実体なきリズムによって基礎づけられたテーゼ(ないしスローガン)を必要とするに至った朔太郎のもとに一層接近し、その独自の詩概念と奇妙な実行の現場にあらためて視線を向け直さねばならない。
→守中、氷島論へ

p.8抜き書き

「・・・事変とともに国粋主義的な雰囲気があたりにたちこめてきたころには「日本への回帰」を口にしながら、なほ「かの声を大きくして、僕等に国粋主義の号令をかけるものよ。暫く我が静かなる周囲を去れ。」といふ颯爽たる言をなしている。が、そこには当然のこと苦渋があつた、迷ひがあつた。


西洋的なる知性は、遂にこの国に於いて敗北せねばならないのだらうか。遂にその最後の日に、僕等は「虚無」と衝突せねばならないだらうか。否々。僕等はあへてそのニヒルを蹂躙しよう。(中略)

僕等の知性人は虚妄の中に抗争しながら、未来の建設に向つて這いあがつてくる。僕等は絶対者の意思である。悩みつつ、嘆きつつ、悲しみつつ、そして尚、最も絶望しながら、しかも、尚前進への意志を捨てないのだ。過去に僕等は、知性人である故に孤独であり、西洋的である故にエトランゼだつた。そして今日、祖国への批判と関係とを持つことから、一層また切実なヂレンマに逢着して、二重に救ひがたく悩んでゐるのだ。孤独と寂寥とは、この国に生まれた知性人の、永遠に避けがたい運命なのだ。


しかし全集第十巻「日本への回帰」のうちにおさめられた他のエッセイや講演原稿は、完全に国粋主義への屈服を物語つてゐる。とはいへこれをかれの知性の屈従、乃至は妥協と見なすのは、むしろひいきの引き倒しといふべきである。かれは西欧の知性を抛棄したのでもなければ、心にもなき追従をしたのでもない。かれほどに打ち込んだ西欧心酔すらも、その傾いた心の一隅に古めかしい封建日本の愚にもつかぬ常識を残してゐたのである。おそらくさほど良心の呵責も感じずに、かれは日本文化の優位性を説いてゐたのに相違なく、そこに近代日本の実相があり、また萩原朔太郎の正体があった。」


※上にいわれる『日本への回帰』の諸エッセイをまとめておく。



抜き書き

10
萩原さんという人は、あの詩がそうであるように、その中ではある無秩序が微妙に諧和を保っている、いわば一つの波浪のような人格者で、そのぎりぎり決着の評価の照準のおきどころは、ただ一つ、何というか、人の嗅覚に訴えてくる香気のような点にある。
11
『新しい欲情』や『虚妄の正義』の感想論文抗議逆説の類を子細に検してみるがいい。誤解や矛盾や撞着は枚挙にも応接にもいとまのない位な人だった。

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三好達治は、朔太郎の矛盾を多く抱えた創作活動の説明に、自然主義の影響をもって一本の道筋を与えている。自然主義は朔太郎が常に敵視していたにもかかわらず、彼の詩作に影響を与え続けたのである。

日本の自然主義が、浪漫主義を多分に含んだものであることはよく言われるので、そのことからでも朔太郎の叙情と矛盾するものではないことは理解できる。

しかし、朔太郎は三好達治のいう通り自然主義を理解していなかったとして、それでは朔太郎がいうところの「自然主義」とは何だったのだろうか。『日本への回帰』の「病床生活からの一発見」で、「理解できた」という「自然主義」とは何のことをさしているのか。



「病床生活からの一発見」抜粋(青空文庫より)

既に子規の歌が解つた私は、ついであの日本文学に於ける大なるスフインクス――自然主義の文学と文学論――を理解することも容易であつた。自然主義の文学論はできるだけ平凡無味の人生を、できるだけ無感激で書くことを主張した。
「平凡を平凡の筆致で書く」
「退屈を退屈の実感で書く」
 これが自然派文学の主張であつた。そこで彼等の作品ほど、文字通りに退屈極まる文学を、かつて世界に見たことがない。それらの文学は、じめじめした倦怠無意味の生活を、真にその退屈の実感[#「退屈の実感」に傍点]で書いてゐた。かうした文学がいつたい「何のために」「何の興味」で創作されるのかといふことは、子規のタダゴト歌以上に、私にとつて釈きがたい謎であつた。

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主として正岡子規の俳句が中心に据えられている。

正岡子規の自然主義と、小説の自然主義は同じではないのではないか。

柄谷行人の『ヒューモアとしての唯物論』とつなげられないか。

朔太郎においてヒューモアとイロニーは区別がつくのか。