佐藤伸宏「萩原朔太郎に於ける〈家郷〉」(『近代の夢と知性』)で、朔太郎の〈日本回帰〉のメルクマールを『四季』昭和一一(一九三六)年五月号に発表された「虚無の歌」にみている。
以下抜き出し、

八五~八六頁「作中の「私」は、晩秋の午後三時、エビス橋近くの、閑散として侘びしいビヤホールに身を置く中で、「昔の日から今日の日まで、私の求めたもの」を見出す。それは、「一杯の冷たい麦酒と、雲を見てゐる自由の時間」である。その「雲」とはかつて、例えば『青猫』「序」に於いて「静かに霊魂の影をながれる雲の郷愁」と語られた、「遠い遠い実在」への「あこがれ」の表象、「郷愁」そのものを象るイメージに他ならなかった。しかし「虚無の歌」に於いて、それはビヤホールの椅子に身を委ねる「私」の〈今・ここ〉の時間と空間の安らぎと充足を保証するもの以外ではありえない。「私」の眼差しが向けられているのは、晩秋の侘びしい光の射し込むビヤホールの内部の〈今・ここ〉の時空間であり、「私の求めたもの」はそこにこそ見出されているのである。そして「私」は、「一切を失い盡し」つつも、「永久に一つの「無」が自分に有ることを信じ」ようとする。こうして「今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかつた。私は喪心者のやうに空を見ながら、自分の幸福に満足して、今日も昨日もひとりで閑雅な麦酒を飲んでる。虚無よ!雲よ!人生よ。」という末尾の部分は、「一切を失い盡した」、その「無」が〈今・ここ〉に「有る」ことの確信に向けられるのである。そのように「無」と「有」とが統合された〈今・ここ〉の肯定的な受容が果たされることによって、「自分の幸福」が確認されることとなったといえよう。朔太郎の「郷愁」がそもそも「ある所の世界」への「不満」に発する「あるべき所の世界」――「彼岸」の「イデヤ」――への憧憬としてあったとすれば、「虚無の歌」に於いては寧ろ〈今・ここ〉の裡にと屈曲し、接合される時、詩の生成の動力としての「郷愁」は殆ど機能停止の状態に陥る。朔太郎の所謂〈日本回帰〉の問題が浮上してくるのも、まさにこの位相に於いてである。」


このあと昭和一二(一九三七)年一二月に「日本への回帰」が発表される。
抜き出し、

八六頁「「日本への回帰」と題されたエッセイ(『いのち』昭和一二・一二)の中で朔太郎は、かつて「僕等にとっての故郷であった」「西洋の蜃気楼」が消失し、「今その「現実の故郷」に却って来た」「僕等」の状況について、「かつて有つた、「日本的なるもの」の実態を探さうとして、当もなく侘しげに徘徊してゐるところの、世にも悲しい漂泊者の群なのである」と記す。即ち朔太郎に於ける〈日本回帰〉とは、もはや何処にも帰るべき〈家郷〉はありえず、失われた「日本的なるもの」を求めつつ「荒廃した土地の隅々」を当て所なく「徘徊」を続けること、そのような「よるべなき魂の漂泊」の謂にほかならない。しかしこの〈日本回帰〉が次のような認識を伴っていることを見逃すことは出来ない。

蜃気楼が幻滅した今、僕等の住むべき真の家郷は、世界の隅々を探し廻って、結局やはり祖国の日本より外にない。(中略)僕等は一切の物を喪失した。しかしながらまた僕等が伝統の日本人で、まさしく僕等の血管中に、祖先二千余年の歴史が脈搏してゐるといふほど、疑いのない事実はないのだ。そしてまたその限りに、僕等は何物をも喪失してはいないのである。」


漂泊の終着点がこのような形で見出されることで、朔太郎の詩作の源となっていた憧憬は見失われてしまう、と佐藤信宏は言う。



さらにいえば、上の朔太郎の書き方は無と有の間でふれ、両義的であるが、この文章の後の文明批評の文章では、「無」が「有る」という両義性さえなくし、単に「日本」が実体化された、今日風に言うならばネタのベタ化とでもいうような内容になっている。

日本の軍人、巡査、女性、都市、使命などの屈託のない実体化。

庶民社会と西欧の知識の狭間でどういう生き方をするかを問うている。


p.110「『智恵子抄』論」抜き書き「この狂気の妻をうたった詩のなかで、高村の美化は完璧であり、うかうかすると自分の妻の狂気をこれほどまでに美化できる高村の冷眼はいったい何であろうか、とかんがえてみることをわすれてしまいそうになってしまう・・・」

神林恒道『日本近代「美学」の誕生』講談社学術文庫2006 3,30
p.137-8抜き書き

明治四十三(一九一〇)年四月刊の雑誌『スバル』に、高村光太郎は「緑色の太陽」と題する一文を寄せている。
・・・
人が「緑色の太陽」を画いても僕は此を非なりとは言はないつもりである。僕にもさう見える事があるかも知れないからである。「緑色の太陽」がある許りで其の絵画の全価値を見ないで過す事はできない。絵画としての優劣は太陽の緑色と紅蓮との差別に関係はないのである。(「緑色の太陽」明治四十三年四月)

「緑色の太陽」を描いてもいいではないかという、光太郎の主張の根本にある思想は、芸術表現の絶対の自由、つまり「芸術家のPERSOENLICHKEIT(個性)に無限の価値を認めようとする」ものである。この主張を貫くものは、もはや芸術における洋の東西の区別を越えたところにある普遍的な「芸術」の理念である。
また同月に雑誌『白樺』が創刊され、同年六月の第一巻第三月号にフランスから帰国して間もない有島生馬が「画家ポール・セザンヌ」を寄稿し、また四十五年一月の第三巻第一号の「革命の画家」っでは柳宗悦が、セザンヌ、ゴーギャン、マチスの画業についての紹介と、初めてこれらの新傾向について本格的な評論を寄せている。こうして『白樺』を中心として、いわゆる「後期印象派」の画家たちへの関心がにわかに高まっていく。そうした動きの中で見るならば、この光太郎の「緑色の太陽」の主張は、それまでの明治の洋画壇のリアリズム表現から一転して、芸術家自身の個性の表現に絶対の価値を求める、新しい世代の芸術運動の先駆けと見なすことができよう。


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近年まで、「緑色の太陽」は日本における印象派宣言である、という見方がしばしばなされていた。しかしそのような見方は誤解である。


この誤解の発端

※固有色(ローカル・カラー)とは印象派の用語で、ものに本来的に宿る色のことを言う。固有色を離れ、天候や時間帯によって変化する色彩の瞬間を切り取って画布に再現したのが印象派である、ととりあえず定義できる。


誤解は、このローカル・カラーという言葉が、地方色と訳され、洋画における日本的アイデンティティの問題が論じられた。その議論に決定的な転回点を与えたのが「緑色の太陽」だった。そのときの、「ローカル・カラー(地方色)なるものは存在しない」が、「ローカル・カラー(固有色)は存在しない」と読み違えられたことによる。


洋画における日本的アイデンティティの論争

山脇信徳の《停車場の朝》が、すぐれて印象派的であるということで賞賛と避難にさらされたこと。

賞賛したのは永井荷風やバーナード・リーチ・・・すぐれて印象派風であり、モネの《サン・ラザール駅》を想起させると賞賛された。

批判したのが石井柏亭 、織田一磨・・・印象派の技法の模倣に過ぎず、日本の風景を写しながら、何ら日本的なものが感じられない。日本的なものの表現を地方色によってなすべきだとした。


「緑色の太陽」が半ばポスト印象派的であるといえる所以

光太郎は無自覚に(p.149光太郎はポスト印象派の概念を理解していないふしがある)ではあったが、リアリズムからの発展としての(?・・・リアリズムからのコペルニクス的転回と印象派をいうなら、リアリズムの発展といってはいけないかもしれない、しかし、だとすれば印象派とポスト印象派の違いが強調されなくなってしまう)印象派をさらに飛び越え、ポスト印象派の色彩観を提示したのである(個性重視)。


何をもってポスト印象派とするのか?

個性重視というだけで、ポスト印象派としていいのか。

p.149抜き出し「柳の「後印象派」の解釈は、セザンヌについても「内面の気息の表象」という『白樺』の同人たちに共通する文学的な人道主義的解釈とそれほど隔たるものではない。」個性重視とどうちがうのか?

→p.163白樺派の文人たちが、ゴッホやゴーギャンらポスト印象主義者を、もっぱら人間としての生き方に対する共感からしか論じなかったことへの造形家としての反発からか、大正四(一九一五)年の評論『印象主義の思想と芸術』において、ポスト印象主義者の名前はほとんどでない。そのあおりなのか、印象派とポスト印象派の違いを見失ってしまっている(マネを前期印象派、それに対するものが後期印象派、というように)。

p.144抜き書き「リアリズムから印象主義への展開は、芸術におけるそれまでの客観主義から主観主義への「コペルニクス的転回」を意味するものであったはずである。・・・・・・ただし光太郎は、この主観主義への転換をさらに一歩進めて、芸術家の「PERSOENLICHKEIT(個性)」の自由な表現の絶対性を主張しようとしている。


p.142中村義一は、『日本近代美術論争史』(昭和五十六年)のなかで「緑色の太陽」は「日本の印象派宣言というのなら、むしろ日本の後期印象派宣言、というよりも表現派宣言、あるいはフォーヴィズム宣言とでもいった方が似つかわしい」と述べている。


※光太郎の印象主義解釈にはユリウス・マイヤー=グレーフェの『近代美術発展史』が影響している。


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「緑色の太陽」問題となる箇所の抜き出し

*僕は芸術界の絶対の自由(フライハイト)を求めている。従って、芸術家の PERSOENLICHKEIT(人格)に無限の権威を認めようとするのである。


*自分と異なった自然の観かたのあるのを ANGENEHME UEBERFALL(快い驚き)として、如何ほどまでにその人が自然の核心を窺い得たか、如何ほどまでにその人の GEFUEHL(感覚、感情)が充実しているか、の方を考えて見たいのである。

*僕は生れて日本人である。魚が水を出て生活の出来ない如く、自分では黙って居ても、僕の居る所には日本人が居る事になるのである。と同時に、魚が水に濡れているのを意識していない如く、僕は日本人だという事を自分で意識していない時がある。時があるどころではない。意識しない時の方が多い位である。人事との交渉の時によく僕は日本人だと思う。自然に向った時には、僕はあまりその考えが出て来ない。つまり、そう思う時は僕の縄張りを思う時である。自我を対象のものの中に投入している時にはこんな考えの起って来よう筈がない。

*僕の製作時の心理状態は、従って、一箇の人間があるのみである。日本などという考えは更に無い。自分の思うまま見たまま、感じたままを構わずに行(や)るばかりである。後(のち)に見てその作品がいわゆる日本的であるかも知れない。ないかも知れない。あっても、なくても、僕という作家にとっては些少の差支えもない事なのである。地方色の存在すら、この場合には零(ゼロ)になるのである。



*日本人の手になったものは結局日本的である。日本的になるのである。日本的にしようとせずともなるのである。しかたのない腐れ縁なのである。

*今日僕等が見ていわゆる地方色と見えない作品も後に至って顧れば、やはり明治の今日の色彩なのである。


*鑑賞家の勝手に味わうべき事で、作家の頭を労すべきものではない。出来た後で評定する事で、出来(でか)すのに考える筈のものではない。作家をして、日本人たる事を忘れさせたい。日本の自然を写しているという観念を全く取らせてしまいたい。そして、自由に、放埒に、我儘に、その見た自然の情調をそのまま画布に表わせさせたい。出来たものが、僕等の眼にあると考える日本のいわゆる地方色と反対のものであっても、僕はその故をもってこれを斥けたくない。


*どんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りはしないのである。 

p.87抜き出し

『道程』一巻を、長沼智恵子との恋愛、結婚の時期を境にして前後にわけ、後期の詩、たとえば「冬が来る」、「狂者の詩」、「戦闘」、「冬が来た」、「牛」、「道程」、「秋の折」などに、高村の本領と特徴がある、というのは一種の定評である。現に、高村自身が、「某月某日」その他で、そういう意味のことをのべている。しかし、わたしのかんがえでは、『道程』後期において高村は、白樺派の影響をうけ、ホイットマンやエミイル・ヱ゛ルハァランの自然児意識に影響をうけ、重要なものを落丁していった。自然主義派と「スバル」派とが、協同してうけつぎ、高村が白秋や杢太郎の歌口をかりて表現しつづけた庶民情念や風俗にたいする愛着と批判とは後期になるにつれてなくなり、剛直なヒューマニズムの詩の実質に転じた。高村は、事故の世界性と弧絶性のあいだに、環境社会を架橋しようとする努力をうしなって、突如として個人的環境の肯定に転じたのである



木下杢太郎

高村光太郎の美術評論「緑色の太陽」は用語の誤訳が一部見られるが、論自体は印象派--後期印象派のムーブメントを的確に捕らえたものである。しかし、日本固有の地方色なるものは最初から存在するものではなく、画家が自由に絵を描いたあと後世から見い出されるものであり、その意味では我々は日本人であろうとしなくても、すでに否応なく日本人である、という論理は、いわゆる「日本への回帰」に陥る可能性を含んでおり、この論理が戦争協力に実を結んでしまったと言えなくもない。

一方萩原朔太郎の文明批評集『日本への回帰』は西欧の知識をイデオロギーとして退け、その後に残る何もない場所としての日本を顕揚するという内容であると一応は言えるが、このようなことが言われる序のあとに続く緒論では、日本の女性、日本の警官などを西欧のそれと比較し論じていくというもので、陳腐な形で“日本文化”を実体化している。
朔太郎の評論やアフォリズムが一貫性を欠き矛盾が多く見られることは三好達治や中野重治らもいうところである。
このような論理のゆれ動きは詩作においては、『氷島』の「汝の故郷は有らざるべし」という、故郷の渇望と放浪を称揚する傾向が同居した詩句と比べることができる。
また、長野隆は、光太郎と朔太郎を対比しそれぞれに、進歩の肯定/否定、線状/環状の時間感覚を見い出している。朔太郎は四季に象徴されるような輪廻と流動の感覚を嫌悪しながらも諦観し、そこに抒情を見い出していた。
このような、決定することを回避する姿勢はどのような背景のもとにあるのか。

瀬尾育生は、国家をパトロンに留学した国民、市民である高村光太郎と、あらゆる階級から疎外された存在であるモッブとの間に朔太郎を位置付ける。国家共同体の外部からもたらされる普遍性と、それによって生じる共同性への亀裂を鋭敏に感じ取り、それに対して恐怖を抱きながらも、普遍性への同一化=モダニストたちのようにあるイデオロギーに埋没することを拒否していた。
このような、モッブでもない国民市民でもない存在としての朔太郎を光太郎との比較で論じていきたい。
『帰郷者』1940「日本文化の特殊性」

*日本と西洋、支那、未開文化の比較。日本は縦の文化、日本以外は横の文化である。縦という言い方には『虚妄の正義』のエッセイの一つにあった、流行と本質的文化の相違を地表と地軸に例えて、早い速度で動く地表と遅い動きの地軸の差異と類比する仕方と似ていて、日本は表面的には貧相だが、一ケ所を深く掘り下げ、地下に輝かしい都市を持った文化を持つのだという。

*土人と言われるところのエチオピアと日本の差異を強調するが、その論拠は曖昧。
*新潮版全集には伏せ字があった。ちくま版も見ておきたい。(おそらく天皇、もしくは神の国といった記述だろう。)

*端的に言えば、縦は精神的、横は物質的である。アメリカがもっとも横的なものとして言われている。しかし、横については、単に物質的という枠にはおさまらない。
日本の旋律だけの音楽と、重厚な和音を持つクラシックを対比して、縦対横の構図に位置付けている。ナチスはアメリカニズムを批判するが、萩原朔太郎は西欧全体を批判している。
ナチスに関して朔太郎はどのような評価をしているのか?
瀬尾の現代詩手帖1999年2月号の論考「崇高な文法の序文」を踏まえての対談。

守中/瀬尾、北川という対立の有り様を知るために、瀬尾と北川の共有する詩史観を見たかったのだが、むしろお互いの齟齬、対立が浮き上がっている。
瀬尾はモダニズムの延長、発展に戦争詩を見ているが、北川は戦争詩をモダニズムの挫折と見る。個々の詩人の挫折感、それに伴う詩作の方法の屈曲を矮小化している、と北川は瀬尾の論をとらえている。

※今日聞いた話では、守中/瀬尾、北川の対立は、詩人の戦時中の戦争協力の事実暴露が櫻本富雄によってなされ、それに対するスタンスの取り方が詩人によって二分されたために起きたものだったらしい。
P.195
春山行夫「日本近代象徴詩の終焉」1928 が紹介されている。
象徴詩の傾向をエゴサンボリスムとキュビサンボリスムに分け、前者に萩原作太郎を位置付ける。
主観を重視する萩原は詩の様式的純粋化のなかに客観化された「ポエジィ」が現れるということを理解できなかった、という。
一方、キュビサンボリスムの傾向をモダニズムへの敷石とする。
伝馬義澄『思索と抒情』審美社2000,7
p.32「我々の時代の文学史は、大部分は、象徴主義の展開、及びその自然主義との融解または軋轢の歴史である。」(E・ウィルソン)
象徴主義の最も過激な発展として、今世紀初頭に、ダダイズムからシュールレアリズムがあり、その展開は文学のみならず広く多ジャンルに波及した。しかし日本ではほとんど詩の運動としてのみ開花し、西欧のような展開を見せることはなかった。

日本ではダダにしろシュールレアリズムにしろ、象徴主義との連続性は意識されていない、ということか?

和田博文編『近現代詩を学ぶ人のために』世界思想社1998,4の象徴詩の章も



『詩的モダニティの舞台』再読
中村光夫『二葉亭四迷伝』(講談社文芸文庫)所収のスガ秀実解説
『守中高明詩集』(思潮社1999)のスガ秀実解説
P.156 最近の現代史手帖での守中と瀬尾育生、北川透との戦後詩史論を巡る論争、というのを調べる必要がある。