ここまで主に男の子の事情を書いてきた。
トイレの構造上、個室に入ること=大きい方、とわかってしまう。
それが、からかい=いじめを生むことになる。
だから、我慢してしまう。
時には我慢できず、漏らしてしまい、さらにいじめや不登校につながる危険性が高まる。
なぜおしっこではなくうんこだけがからかいにつながるのか、その点は改めて考えたいが、とにかく男の子はからかい=ヒエラルキーからの転落=に結び付くうんこを忌避する。
ところで女の子はどうなのだろうか。私は男性なので、その点はわからない。
ただ、エッセイなどでそのことに触れた例が、いくつかある。
作家の柳美里のエッセイ「私語辞典」。「あ」から「わ」まで44語を選んで、エッセイとして綴る形式で、そのうち「ひ」=「秘密」の項で、小学生時代の出来事に触れている。柳は1968年生まれなので、1980年頃のことと思われる。
彼女が振り返っているのは、小学6年生の時、算数の授業中におしっこを漏らしてしまった時のこと。
なぜトイレに行けなかったか、その理由にも言及している。
その数日前にも授業中に尿意を催し、担任の先生にトイレに行く旨を申告した際、「うんこか?」と聞かれ、それ以来、級友から「うんこ」とあだ名され、恥ずかしい思いをした。そのため、再び尿意を催してしまったその日、我慢することを選択したが、授業終了まであと数分のところで限界を超えてしまったーー。
彼女は翌年、多くの級友と別れて私立中学に進学する。その理由について、このお漏らしを挙げ「何も知らないひとのなかでやりなおしたかった」と述べている。進路に影響する痛恨のアクシデントだった。最高学年になってのトイレの失敗は、低学年のころに比べるとレアケースであろうし、当人のショックも、低学年生に比べるとはるかに大きいはずである。
この担任の先生(男性)が、ひどくデリカシーのない人であることは確かだ。
ただ、うんこに悩まされた立場としては、次のような、本質とはおそらく外れたことについて、つい考えてしまう。
この先生が柳の申し出に対し、「おしっこか?」と聞いていたとしたら、どうなっただろうか。
級友は「おしっこ」というあだ名をつけなかったのではないか。あだ名をつけたのはおそらくは男子だろう。男子はうんこは忌避しからかいの対象とするが、おしっこについてはそうではない。扉も衝立もない、下手すると性器が見えてしまう環境で、男子たちは並んで用を足しているのだから。
一方で、彼女がそのあだ名を気にしたのは、やはり女性にも、男子ほどではないが、「うんこ」は忌避すべき案件だったのではないか。
「うんこ」のあだ名がつけられなければ、彼女はトイレに行く決心がつき、お漏らしという悲劇はなかったかもしれない。
だとしたら、私立中学に進まず、つまり彼女の人生は現実とは大きく変わり、数々の表彰を受ける作家になっていなかったかもしれない。
日本を代表する作家を生んだのが、このデリカシーのない担任教員の「うんこ」のひとことだったのではないか・・・。
もちろん、これは、単純で極端な想像でしかない。
柳美里は、様々な苦悩を抱え、それらについて考え抜き、言語化できる才を有している。幼いころから読書を重ね、豊富な知識と文学的才能もあった。なので、どのような経路をたどろうとも、作家として頭角を現しただろうとは思う。
それでも、波乱万丈の人生を歩んでいる人であっても、学校でのトイレの失敗は、大きな傷として残り、進路に影響を与えるほどのアクシデントだったと、このエッセイからは読み取れる。その引き金が「うんこ」のひとことだったとしたら・・・。「うんこ」は、時によって、ちょっとしたからかい、揶揄では済まない威力を持っている。その危険性については誰もが(とくに学校における教師など、その環境における上位者は)、認識しておかねばならないと思う。