会社員生活も早くも一年が過ぎました。

人生で初めてボーナスというものをもらいました。

給料も込み込みでポスドク時代の倍です。

やはり給料は大事です笑

 

都内に住んでいるというのもあって生活レベルが格段に上がりましたし、比較的自由な時間も増えたので研究していてはできなかった他分野の勉強(経済の勉強とか)もできる様になり幸福度も上がリました。

ストレスによる暴飲暴食で増え続けた体重もダイエットをする余裕もでき−8kgまで減量できましたし、過敏性腸症候群だったお腹の調子もかなり改善されました。

健康もやっぱり大事です。

 

コロナの影響もあって基本はポスドク時代とあまり変わらず家でひたすら研究するというお仕事をしています。

論文も一本完成してT大の2年で辛うじて1本だったことを思うとT大の環境が余程悪かったんだなと実感しています。

 

大学の頃は「キチョナハナシカンシャ」の就活全盛期で「上部だけ見繕ってやる就職はだるい」とか「クソみたいな上司の指示を聞かないといけないのは嫌だ」とか「企業には自由がない」みたいなことを思っていましたし、博士まで進む多くの人はそう思っていると思います。

 

むしろ私にとってはT大で経験がまさに上の様な大学生の頃に想像した嫌な職場だったので民間企業の方が自由を感じています。

ただし企業の規模や職種などでその環境は大きく変わるとは思いますが。

 

ビジネスの世界も虚栄に満ちているのはまあそうなんですが僕がT大見た世界もあまりに虚栄に満ちた世界でした。

ビジネスの世界ではそういった虚栄の世界から離れることも可能ですし虚栄だけの会社に行くこともできます。

給料を取るか安定を取るか、仕事の内容を取るか、地位を取るか様々な選択肢があります。

一方で大学職員という単一賃金、単一仕事内容、単一の価値観という非常に限られた選択しかありません。

 

また、民間はやはり品質が第一ですので、動くかどうか怪しい開発はしませんし研究不正の様な悪いことはすぐにバレます。

T大時代には数字を帳尻合わせする様ないい加減な開発や測定を沢山目にしてきたので、民間の方がストレスをためずにできています。

 

どうせポスドクでも研究内容が場所によって変わったり、色々場所を変えたりするわけです。

一方で民間の研究職は基本研究所が決まっているのでそこから動くことはあまりありません。

何か一つのものに執着したい人や「教授」というブランドを身につけたい人には向きませんが、

チャレンジ精神があって比較的柔軟な頭と適度な割り切りがあれば民間企業での研究も案外悪いものじゃないなと思います。

 

使用期間も過ぎて無事正社員になれました。やったね。

人生初めての有休なるものがもらえます笑

 

さてさて三か月も過ぎて普通に業務をこなしているのですが

やっていることがAIということもあってやはり半分くらいはアカデミアにも近しい雰囲気がありますがどこか違う気分も感じています。

 

同じ研究をしていても「研究員」という身分で研究しているのと「役職無し」の平社員として働いているのではやはり見栄えが違いますし笑

「○○研究所」で働くのと「株式会社△△」で働くのもやっぱり心持ちが違います笑

 

シャバに戻ってそういう意味での「特別感」を失ったことでの心持ちを保つことに気を使っていることに気づきました。

 

アカデミアの世界と違って資本主義の世界では何かと”比較される”ことが多くなります。

年収だったり、学歴だったり、役職だったり。住んでる場所でもマウントをとれますし、車とか、ブランド品とか。

そのほかにも会社を立ち上げたとか、管理職になったとか、知人の多さとか。

 

私も30歳なので同期はもう8年働いてるんですか?優秀な奴はそこそこ出世しているはずですし、ニュースを見ていてもわかるように色々と意識の高い人達の自慢話がたくさん載っているわけです。

 

アカデミアの世界は狭いですし、大体みんな貧乏なので笑

比較と言われるとポスドクの場合ポストを取ったとか、研究成果が出たくらいの比較しかありません。

 

また、本人も「成果だけが実力じゃない」みたいな思いを持っていると思いますし、実際に「実力以外」が重要視されるのは以前書いた通りです。他人との比較は「ベクトルが違う」みたいなことを言ってたわけで多少のやっかみはあれど「自分は比較できない何かを持っている」と信じてそこまでアイディンティティがぶれることはありませんでした。

 

そういう意味では「研究員」という身分だけで、それがアイデンティティを保つのに役たっていたように思います。

 

私は貧乏ポスドクからごくごく社会の平均的な給料を得た程度ですので「そんな頑張って働いて年収増やさなくても」と思っているのですが、他人と比較されると「もっと年収があった方が」と思ってしまいますし、

もっと資格取っておけばとか、比較可能な能力を持っておけばよかったと思ってしまうことは結構あります。

 

そもそも、そういう方向性での勝負は最初からするつもりはないのでただのやっかみでしかないのですが

やはり一般社会で生きている以上はそういう点ばかりに目を向けられてしまいがちです。

そういう意味ではただひたすらに競争社会というよりは評価経済社会に近いですよね、色々なところで比較され常に客観的な数値で評価されてます。そのプレッシャーは常に感じるようになります。

 

ですので、アカデミアにいたときと同じように「競争だけがすべてじゃない」という心持ちを保つことってのはちゃんと意識しないと難しいなと感じています。

 

まあそれがアカデミアの閉そく性だったりへつながっていくのだとは思いますが、「自分自身の評価軸」をちゃんと持つほどにはきちんと人格形成をしていくというのがアカデミア以上に社会に出ていくと必要だなということを感じました。

 

 

 

アマゾンで面白そうなドキュメンタリーを見つけました。

 

現役時代に冗談で「研究は宗教に似ている」とよくいっていましたが、離れてから思うほどにカルトと特徴が似ているなと感じました。

 

多くの研究ではまず「正しいかどうかわからない」仮説をもとに実験なりを計画します。

研究は全てが予想通りに成果が出るわけでもない。ではその研究をなぜ続けるかというとその「正しいかよく割らない仮説」が正しいことを「信じて」研究を行っているわけでまさに「信仰」と言えるでしょう。

そういう意味で研究室や研究テーマを選んだりする地点でそのテーマに意志を持って取り組むときにはある種「信仰」を選んでいるのにも似ています。

 

大きな実験だったり王道テーマはキリスト教や仏教のような大きな宗教のようにその正当性と信頼性が担保されているわけですし、

小さな実験や突飛な主張をする研究はグノーシス主義のようなマイナーだったり、幸福の科学のような新興宗教みたいに「まず信じてもらう」ところからスタートのようなものに近いかと。

 

さてカルトの特徴と研究室のアカデミックの世界を比べてみましょう。

 

 

 

マインドコントロール: 人によっては行動だったり予定だったりを逐一チェックします。

一般社会の蔑視、軽視:稼ぐのは悪だだったり、私生活を犠牲にするような雰囲気が作られています笑

ライフスタイル: 24時間365日研究のことを考えろと圧力がかけられてそのように実践することを求められます。

教祖への服従: 博士号を取るには絶対服従が必要です

批判的思考の否定: 案外そういう研究室はありまして、「いいから黙ってやれ」的な先生は多くいます笑

目的のための手段の正当化: 結果至上主義はいたるところでありますよね。

脱会者には、恐ろしい制裁がくだされる: 就職は「信仰を捨てた」と思い、学生に冷たい態度をとる名前がそこそこしれている教授も知っております。

 

などなど特徴は大いに似ています笑

 

今思うと「カルトにはまりやすい人」とアカデミアによくいる人の性格はひじょーによく似通っていると思います笑

 

私も「自分はそこまでマインドコントロールされていない」と思っていましたが、離れてみて案外価値観だったり物の味方が染まっていたんだなと思います。

 

 

 

前回の記事で就職で「特別感」が無くなったということを書きました。

 

年末年始でamazon prime オリジナルのドラマの「The Boys」を見ていたのですが、

ふとポスドク時代のことを思い出しました。

 

人間だれしもが何等かの形で「特別な人間でありたい」と願いますが、

人間どこかで「自分は普通の人間なんだ」と思うときがやってきます笑


それがいつどこでその現実を突きつけられるのかはまあ人次第ですが、

例えば、地方大会予選で負けたとか、第一志望の大学に行けなかったとか、第一志望の会社に入社できなかったとか、出世競争で同期に先を越されたとかとか。

人生の節目において何かしらの挫折なりを経験して、おそらく99%くらいの人はどこかで折り合いをつけて自分の人生を全うするわけです。

 

スポーツ選手だったり、アイドルだったりはもっと早くにその才能を開花させてその才能を磨いているわけで、研究員だったり、会社経営者だったり大学生があこがれる会社に就職するのはある種「特別な人間」になる「最後の砦」ともいえます。

 

会社を立ち上げるのはまあそれなりの覚悟と能力が必要な割に、スタートアップが軌道に乗るにはかなりきつい。

GAFAだったりマッキンゼーだったりは倍率100倍なわけで中々入るのは難しい。

そういう意味では研究者は最も敷居の低い「何者かになれる道」だと思います。

 

1.ごくごく普通の大学生活を送るだけでOK

2.足切りや試験のような敷居が存在しない

3.研究の世界では学歴はさほど関係ないというパワーワード

4.思い立つのが遅くてもOK(22歳前後)

5.分野によって(修士で論文書けるような分野)は世界最先端の敷居が低い

6.最終的に「教授」という特別な人間になれる。

 

どちらかというと研究なんて陰キャな奴らがやるものなので

人生で唯一の「何者かになれる可能性」と言ってもいいでしょう笑

 

一方でこのブログにあるように研究者も世間から見ると「何者か」ですが、

研究という世界で見るとそこで極めるのはただの人に感じてしまいます。

 

 

 

 

研究者は極めるのが無理と悟ってもお金は稼げませんので笑

一般公演に精をだしたり、何とか委員とかを歴任したり本を書いたりするわけです笑

 

研究者は一人前になるのが30手前なので何らかの形での「折り合い」がないと

いつまでたってもこの欲求が無くならないまま年を取っていくわけですね。

 

30まで生きてきていると何が妥協できて何が妥協できないのか、どういう風に生きたいのか、などなどの人生観が固まってきます。それには正解はなくて自分自身のそれまでの人生から出てきたある種の”限界”みたいなものです。

 

この限界は否定しようが否定しまいがこれ以上は変えられないもので「受け入れざるを得ない」ものですが、自分以外がその限界を設定する世界にいるといつまでたっても外部からの評価を求めるようになります。

 

生まれ育った環境もありますが、研究者の場合はその”限界”を悟ることや外部に評価を求めるような部分が非常に多い場合(トップカンファレンス至上主義とかまさにそうです。。。)

それゆえ「何者かになりたい病」にかかってしまうんでしょう。

 

日本学術会議の問題もこの何者かになりたい病患者と言えると思いますし、左翼が多いのもこの病が蔓延っているからです。

学内政治に精を出す人間はたくさんいますが、これも「何者かになりたい」がためです。

 

研究の場ではこの病気にり患すると、周りを巻き込んで多大な被害を与えます。

研究不正もパワハラアカハラも、業績盗むのも学生の指導をしないのもこの病気が一つの原因になります。

 

テスラの浮かれ具合を見ているとやはり何者かになりたい人は世界的にも多いように見えますが、少なくとも研究の世界ではろくなことはありません。

ですので、若手の人はぜひこの病に打ち勝って研究をしてほしいものです。

 

個人的な経験として一つ言えるのは「一度でいいから死ぬ気で研究してみなさい」ということです。

それで出てくる成果があなたの最大限の成果です。それを基準に世界を見てみると自分の全力の能力がどれくらいかというのがわかるはずです。

 

ありていですが、「限界まで頑張る」ということがこの病と闘う唯一で一番効果の方法なんだと思います。

 

 

 

 

 

 

私が反対だったバラマキが実現してしまいました。。。

 

Yahoo コメントを見ていると案外冷静でして

「そこでお金撒くよりも博士の就職支援など出口を広げるべき」

という意見が多く、世間の方が案外冷静に見ているなと。

 

そもそも論として「なぜ博士課程を増やさなければならぬのか」という所に立ち返って

個人的な問題とグローバルな思惑をしっかり理解しなければならない気はしています。

 

 

 

まず、国の切実な事情として「国際社会の中でのプレゼンス」があります。

日本の大手企業とくにITと家電は軒並み苦戦しています。

 

その中でよく言われている「大企業病」を改善して、より流動的な社会を作り出したいというのが政府なのか誰なのか知りませんが、上の方の事情なんでしょう。

 

これまでの日本企業は「自社で教育を行う」という文化で成り立ってきました。

コストを負担することでその企業に必要な知識や経験を効率よく獲得できるメリットがあります。

そのカリキュラムが存在するので、人事の評価もわかりやすかったりします。

よくないのはその会社での「局所最適化」されてしまい社会とのズレを感じられなくなることです。ハンコ文化だったり、非効率なやり方がまかり通ったりするのも「局所最適化」の最たるものでしょう。そして新しいものへの適応が遅れるという問題もあります。

また自社にないものは教育できませんので笑、新しいことは外部から持ってくるしかありません。

 

流動性を持つにはどこでも使える「汎用的な能力」が必要ですので大学院重点化あたりから「教育の外注」をしようと思ったんでしょう。

また、人材の流動化が起きると教育コストはリスクになっていくので、そこを抑えたいというのもあると思います。

特にITだったり先端技術だったりと通常の企業ができないものを何とかものにするためにも(大学の機能をある意味いまさらながら)利用しようとしているというのが国の魂胆だと想像します。

 

要は国としては「博士に行ってほしい」というなんだかよくわからないことを望んでいるわけですね笑

巷でいわれているように「博士課程の劣悪な環境」が存在しているのが博士課程に進むのを阻んでいると。

それを改善することで博士卒を増やしたいというのが魂胆なわけです。

 

 

正直博士課程が何とか言われ始めたのはここ5年くらいなんですよね。

私が大学に入ったころはまだまだ博士なんていったら「人生詰む」といわれていたものです。

(今も間違いではないですが)

一方で私がよく言われたのは「博士課程の環境は以前と比べるとかなり良くなっている」ということでした。

昔は「科研費ポスドク」はダメだったようですし学振ももっと採択率が低かった。

昔は「無給ポスドク」という闇の深いポジションもあったくらいですし。。。

そういう意味では徐々にではありますが環境は改善されています。

まあ今は博士課程だったり、高等教育の在り方が変わる過渡期なのかと。

 

 

 

一方で学生側はなぜ博士課程に行くのでしょう?

 

私の場合は「働くイメージがわかなかった」です笑

なんという意識の低さ笑

まあ研究だったり、色々なことを知ったり考えたりという作業が楽しかったというのもあります。

また、「キチョナハナシカンシャ」みたいな茶番のような就職活動の全盛期でして笑、それをやりたくなかったということもあります。

周りには内定をけったり、インターンをして気が変わったと博士課程に進んでいる人もいて「最後までやり抜きたい」「満足いくまでやりたい」みたいな強い意志をもった人もいました。

 

 

博士課程に行く人間はどういう就職を考えて博士課程に行ったのかと言われると半分くらいは「何も考えてない」です(笑)

と言いつつも修士で就職活動を一応やっていた人間は最終的に就職する印象が強く、逆に何もしていない人の方が残っている印象でした。

そして、なぜか企業就職に対して「向いていない」と思い込んでいる人がものすごく多くいて笑

 

 

「アカポス以外」を最初から除外している人がなんだかんだでアカポスについている気はします。

とある学会のキャリア相談会的なものに出たときに「民間企業への就職を考えたスタッフ職」についてアンケートを取ったら

三割程度の人間しか民間企業就職を考えなかったそうで、ある意味衝撃でした笑

 

まあ、つまりは大体の博士課程まで行く人はなんだかんだでアカポスにつきたいと思っているわけです。

 

ですので、どんなに金銭的な支援をしても「パーマネント競争」の要員が増えていくだけであって民間企業に目が行くことはありません。。。

そこの意識が変わらない以上はどれだけ金銭的な支援をしても意味はないわけです。。。

また、業界的にもやはり「就職は負け組」であるという認識は多くの人がもっているのでさらに厄介です笑

 

ちなみにT大では以前からリーディング大学院とか卓越大学院という国を食い物にしたかのような制度が存在していまして笑

 

 

建前は「民間企業で活躍する博士を増やすため」ですがその中身はバラマキと変わりはなく申し訳ない程度の講義やデューティをこなせば月々20万程度のお給料がもらえる。

(ここまでかいて気づいたのは、結局卓越が切れたので新しい名前で継続するだけの話ですね。。。)

学生側は基本的にやる気はなく、20万のためにデューティを消化しているだけでした笑

 

 

結局学生側の意識が就職に向くようにならないとうまくいかないよなあとは思うのです。

そして就職に意識が向いている人は基本的に博士なんていってもいいことないので結局修士で就職するわけです。

 

博士課程の学生にどれだけ就職の勧めをしても博士課程の学生は基本的に「いうことを聞かない」人種なので意味がない笑

 

私は基礎科学の人間なので、大学院まで就職予備校になって、最先端のエンジニアリングばかり追い求めるのはあまり感心しません。

一方で学術会議の問題のように確実に時代の感性と合わなくなっている感じがあります。

 

いまいちど、学生たちも「なぜ学問が大事なのか」「なぜ学問をやっているのか」ということを考えてみてもいいように思います。

 

まあそういうことを考えない人がアカデミアに残っていくんですけどね