大学の帰り道、私の前方少し先に友達の吉郎が歩いているのに気がついた。私はばれない様にコッソリと吉郎に近づいていった。
「よーしくんっ!」
私が吉郎の前に飛び出すと、吉郎は反射的になのか、何故か手をクロスさせて、
「バリア!」
と大きな声で叫んだ。
「え」
「あっさやか!うわあすっごいビックリした」
「ごめんごめん。道歩いてたらよしくんがいるんだもん」私がそう言うと、
「えー!?へへへ!」鼻の下が伸びる吉郎。
「鼻の下伸びてるよ、だらしないよ」
そう指摘すると吉郎は慌てて手で顔を覆って「だめ!見ちゃだめ!」と恥ずかしがる。スポーツもやっていてガタイの良いお兄さんが何言っちゃってるんだか、とも思うが、吉郎のこういう所が本当に可愛いと私は思う。私は道の真ん中で立ち止まる吉郎を恥に誘導して再び歩き出す。

あんなに威勢の良い挨拶をかました後なのに、暫く無言が続いた。横…いや少し斜め後ろで吉郎がおずおずとこちらを見ているのに私は気づいていた。
「よしくん久しぶりだね」「うん」
「柔道はどう?」「うん、いい感じだよ」
そんなありきたりな会話の後、
「さやかも元気だった?」
その返答に私は一置き置かざるを得なかった。
「…うん」

私達は友達だ。2ヶ月前までは恋人だった友達。

その理由は100%私のせいで、それはそれは酷い仕打ちを吉郎にしたのを鮮明に覚えている。縋る吉郎をいとも簡単に蹴落としたその罪悪感は決して消える事はない。だからこうして吉郎の目の前に現れる事自体間違っているし吉郎を冒涜しているのだ。きっと私は私だけが許されたいが故に、こうして何もなかったかの様に吉郎と会話していられるのだろう。
「彼氏とは仲良くやってる?」
「それ聞いちゃうの?辛くなるでしょう」
「うん、でもさやかが幸せならいいんだ。俺は幸せに出来なかったから」

吉郎はお人好しすぎる。だからこんなダメ人間の私に捕まってしまうのだ。心地よくて、でもどこか物足りない、そんな人。私とは住む世界が違うのに、それでも吉郎は私の事が好きだという。私ももちろん好きだった。でも、吉郎にはきっと私よりもお似合いの女の子が何処かにいるはずで、幸せにしてあげられるのは私ではないと解ってるから、私はこの人とは一緒には居られない、一緒に居てはいけないと思ってしまったのだ。

駅に近づく2人。今付き合っている彼の家に辿り着くには次の交差点で曲がらなくてはいけない。私は下を向きながら、
「よしくんはさ、もう私なんかやめなよ。自分を幸せにしてあげてよ」続けて、
「ていうかやめてください。幸せになって下さい」
と言うと、
「みんなにそう言われる」
嫌な顔せずに無邪気に笑うのであった。
「さやか、そしたらもう後ろから声掛けたりしないで。この道を通る度にまた後ろから現れるんじゃないかって期待しちゃうから」
私は少しだけ顔をあげて吉郎を覗く。相変わらず笑っている。

もしかしたら未練があるのは私の方なのかもしれない。どこかでまたなんて、なんて図々しいんだろう。吉郎を留まらせているのは私。私が変わらなければ。吉郎の笑顔を見て私は思った。私達は交差点に着いた。
「じゃあ、私こっちだから」
吉郎は察したのか、少し寂しい顔を見せたがすぐに笑顔になった。

「おう、それじゃあさようなら」

その言葉は今まで生きて来て一番心に刺さった。なのに、私の心は随分と軽くなった様に思えた。吉郎はきっと許すとか許さないとか、愛してた彼女に裏切られたとかそんな事気にしてはいない。私もそんな人間になりたい。いや、吉郎という人間を知ってしまったからには私は変わらなければいけない。

「ありがとう」

吉郎は私に手を降ると、振り返る事もなく駅に向かっていった。私も交差点を曲がる。
それから吉郎を見る事は一度もなかった。



「楽しみにしてて」
ゆうちゃんにそう言われてから何時間経ったであろうか。慣れないヒールを履いてきたせいで踵がジンジンと痛む。それに連動する様に私の顔もくしゃくしゃになっていく。
昨日まではこんなはずではなかったのに、どうしてこうなったんだろう。私は雲行きが怪しくなっていく空を見つめながら、昨日のゆうちゃんからのコールを思い出していた。

「今日商店街を通ったらね、はるちゃんの好きなキャラクターの抱き枕があったよ」「僕たちもうすぐ3年になるでしょう、少し早いけどはるちゃんにプレゼントしたいと思って」「だから明日お出かけしようよ」
普段休日に外に出ようなんて絶対に言わないのに、開口一番、声高らかにそう提案した。あまり唐突で、でも電話の向こうで照れているゆうちゃんを想像したら私は胸が一杯になってしまった。私の好きなものや記念日を覚えていてくれた事も素直に嬉しかったので、すぐにそのお誘いを受けた。
「じゃあ明日は可愛い格好で来てね!」
「可愛い格好?何で?」
「何でも。楽しみにしてて」
ゆうちゃんは計画をするのが得意な方ではない。むしろ苦手だ。デートの時は大半が私が提案してそこに行くのが当たり前となっていて、初めの方は気を使ってくれているのかなと思う様にしていたが、友人に話しても「男らしくないね」と言われてしまうので、最近はデート当日の「何する?」というゆうちゃんの言葉があまり好きではなかった。でも今回は違う。楽しみにしてて、その言葉がぐるぐると頭を駆け巡る。ああ、すごく楽しみだ。もしかしたらお店を予約してくれているのかも。楽しみにしてて。うん、楽しみにしてる…昨日はこんな事を繰り返し脳内再生していたせいであまりよく眠れなかった。

そして当日、今日になってゆうちゃんが姿を見せないのだ。何度も連絡したが繋がらない。こんな事はザラだった。いや、いつもそう。ゆうちゃんってこういう人だった。あの言葉にすっかり騙されていたんだ。私の中から今日ここに来るまでの幸せな気持ちが消えて、今までの不満が一気に爆発した音が響いた。
集合時間から3時間過ぎた頃、私はやっと帰る決心をしてその場から離れた。踵の痛みは次第に胸の痛みで打ち消され、人通りの多い商店街だったが、そんな事も御構い無しに私は涙を流し続けた。

商店街から抜け出そうとした時、私の好きなキャラクターの抱き枕を持ってはしゃいでいる女の子が通り過ぎた。ゆうちゃんが言っていたお店のタグが耳に縛り付けてあった。手を繋いでいるお父さんが女の子に「よかったね、買えて」と手を繋いでいない反対の手で抱き枕の耳をちょんちょんと触った。ああ…ゆうちゃんってそういう人だもんね。私はゆうちゃんに電話ではなくメールをする。
「抱き枕買えなかったって素直に言えばいいのに」
返事はあっさり返って来た。
「何で知ってるの!?」
「だって私達3年の付き合いになるんだよ」
「今違う店で探してるから、ごめん」
「ありがとう。でももういいの、早く来て。そしたら私達ちゃんと話そう。」
ゆうちゃんから連絡が途絶える。顔を真っ赤にして走る優しいゆうちゃんの姿が頭に浮かぶ。そうさせているのは私のせいだ。結局私もゆうちゃんに無理をさせているのかもしれない。きっとお互いが足りない事ってまだたくさんあるはずなんだ。

踵がじんわりと痛み出した。


 
「なんだかね、ずっと見ていたくなるんだよ、君のまつげ」
そう言うのは今年の4月のクラス替えで同じクラスの前の席になった速水だった。
「長くて素敵だなあ」
「…」
「横から覗くと物が突き刺さって見えるね」
速水はにこにこと自分のまつげを指差した。
 
私はいわゆる人見知りというやつで、出会って数日でマシンガントークを繰り広げる、チャラ男のような無鉄砲なノリについていけずにいた。
この高校に入学してもう2年が経ったというのにろくに友達も作らず(作れず)、読書が唯一の友達だった根暗と、明るい性格でバリバリの運動部、他のクラスからの訪問者も絶えない人気者とのテンションの差は正に月とスッポンと言えるだろう。
こういう類の人は、私の様な暗い人間でも対応を変えずに明るく話しかけてくれる。対してこちらは免疫がない分、反応に困ってしまうので1、2往復会話した時点で察して欲しいオーラを放出しているのだが、何故だろう、察する能力が備わっていない様である。会話が始まるとチャイムが鳴り終わるまで離してくれない。
話すだけ気疲れしてしまうので本当にいい迷惑…と思いつつも話しかけてくれる事自体は案外嬉しかったりする。嘘、案外ではない。非常にである。
速水の会話には嫌味がない。それに私を褒めてくれる人なんて親以外初めてだったから、会話を重ねる毎に心も大きく動揺していた。これもその類の悪い所だ、普通の会話なんて私にとっては全く普通ではないのだから、少し目が合うだけ意識してしまうし、勝手に妄想を巡らせて痛い勘違いをしてしまう。あっちはこんな事でなんて思うだろうけど、こっちにとってはクラスメイトとの会話だって大イベントなのだ。
 
「メイクしてないよね、しないの?」私は頷く。
「見てみたいなあ」私は首を傾げる。
「顔立ち綺麗だから美人になるよ」なるよ私は机に顔を向ける。因みにこの間に速水の顔は一度も見ていない。
「一番見たいのはまつげなんだけどね!どのくらい伸びるのかなあ」
「そんなに…」私が顔を少し上げて目を向けると、
「お」
速水は私の顔を覗き込み、「やっとこっち見た」と笑顔になるのであった。
 
こんな事されたら誰だって好きになる。
私じゃなくたってきっと……きっと色んな人にもこんな笑顔を振りまいているんだと考えると、つんと胸が苦しくなる。
例え無自覚だとしても、どうせ実らない恋を生み出しては踏みにじっているのだ。それでいてそんな気にさせるつもりはなかったで済まされたら、こちらはもう何も言えないではないか。なら私はこの気持ちを押し殺すしかない。どうせどうせと自分に言い聞かせるのだ。嬉しいけどもう辞めて欲しい。辞めて欲しいけど辞めないで欲しい。
 
「速水ー」
隣のクラスの女の子が速水を呼び出す。しかし速水は席を動こうとしない。
「あの、呼んでるよ」
「いいの、もう少し居させて」
「どうして」
速水は照れ臭そうに口を窄めた。
…本当に変な人。嫌な人。思わせぶりな人。こんな私を認めてくれる、唯一の…。
 
「速水ゆき!いるなら返事しなさいよね」
「ごめんごめん。じゃあいってくるね」
 
 
唯一の女性なのだ。