宗説坊をすぎれば、やがて赤沢の地区が一望眼下に開ける。地区は羽衣橋と角瀬のほぼ中間、春気川に沿っ台地の上にある。台地の中程には一際大きな屋根がある。それが妙福寺。

やがて地区に入れば、傾斜した狭い台地に更に猫の額のような段々畑が続いている。地区の戸数は三十数戸、人口およそ二百人。旅館は六軒(昭和35年当時)。その中の大阪屋に旅装をとく。山間の日没は早い。あたりは既に夕靄が立ちこめ、家々では夕餉の支度を急いでいる。くつろぐのもそこそこに再び取材にとりかかり、妙福寺を訪ねる。

門をくぐれば境内正面のつき当たりに子安八幡のお堂があり、その右に本堂、手前に庫裏がある。住職は当山四十四世井出春省上人(昭和35年当時)。上人の語る所を総合して、妙福寺の由緒・沿革、並に赤沢地区のそれを述ぶれば、およそ次のようである。


妙福寺はもと妙福庵という真言宗の庵室であった。当時、赤沢の地区も僅か六軒にすぎなかったという。宗祖滅後、永仁五年九月十八日、日朗上人と波木井公の一行が、追分を越して此処妙福庵に宿泊し、一夜法門を説いて寺もろとも地区まで改宗せしめ、翌十九日、妙福庵の住職、並に赤沢地区の戸主六人の案内をうけて春気川を渡り、七面山の麓を川に沿って今の羽衣橋のあたりへ出、これより尾根づたいに山頂へ登り、一ノ池のほとりに七面大明神を勧請して宗祖の遺命を果たした。なお妙福庵に宿泊された夜、日朗上人の夢枕に示現した尊霊を勧請されたのが、妙福寺の今の子安八幡大菩薩であるという。


さて、妙福庵は身延九世成就院日学上人の代に、妙福寺という寺号がさづけられ、降って身延二十四世顕是院日要上人の代、即ち妙福寺十七世宝蔵院日照上人の時、七面山と参道の宗説坊・神力坊・蓮華坊・肝心坊・中適坊・晴雲坊の六ヶ坊を身延山へ寄進している。

それまでは七面山にしても六ヶ坊にしても、すべて妙福寺によって管理されていたもので、これを身延山へ寄進した時、その功に対して身延山より、

一、妙福寺十七世宝蔵院日照上人を初代別当とする

二、七面山の鍵は、代々妙福寺で管理する

三、赤沢地区の八軒を方丈檀家とする


という条を賜り、以来妙福寺を「鍵取り妙福寺」

と称し、これに淵源して今日なお連綿として、毎年正月の元辰には妙福寺住職は赤沢の地区民と共に七面山に登って、初開扉を奉行している。勿論、妙福寺住職による開扉は正月元旦のみであって、後は七面山別当職に鍵があづけられている。

なお、ここに「方丈檀家」というのは身延山の直檀という意味で、当時、身延の本山を方丈と呼んでいた俗称によるもの。現在も赤沢には八軒の方丈檀家といわれた旧家が残っているが、これらの家々には、珍しく身延山歴代法主のしたためられた大曼荼羅が保存されている。

それは身延山の歴代法主が「日朗上人の七面山開創の故事」にならって、毎年九月十八日身延より追分を越して妙福寺に一泊し、翌十九日七面山へ登詣されるに当り、彼等の代々の先祖が、方丈檀家として同じく「日朗上人の故事」にならい、妙福寺住職と共に、これを先導案内したことに対して、親しく授与されたものである。

また妙福寺には身延六十一世智了院日心上人の一軸がある。それには、

 昔 霊鷲山に在して此の法華経を説く

 今 正に宮中に在して大菩薩と示現す


と漢文で書かれ、「赤沢妙福寺常什」の奥書が入っている。この文句は宇佐八幡宮の御神体(石像)が二つに割れた一方に刻まれていたもの、一名「石体銘」ともいい、「宮中に在して大菩薩と示現す」とは、応神天皇が八幡大菩薩であることを意味している。


さて此の軸は、歴代の法主が九月十八日七面山へ向かわれる途中、妙福寺に一泊される度毎に、その居間に掲げられていたもので、それは曽って日朗上人が妙福寺に宿られた夜、その夢枕に妙福寺の子安八幡大菩薩が示現した、という故事にあやかったものである。

このような「日朗上人の七面山開創の故事」にあやかる歴代の習わしは、以来身延八十三世望月日謙上人の代まで相続されたのであったが、その後、地区からの出火から妙福寺が類焼したことによって中絶しこれが復活した頃には角瀬方面の交通が開け、法主は車で角瀬へ出、それより羽衣橋を経て直接七面山へ登り、妙福寺へは法主のご名代として身延山執事が、追分越しに各寺・各坊と共にご挨拶に立ち寄るよう変更されて今日に至っている。

その夜、妙福寺では遅くまで色々なことをお聞きした。そして宿へ帰って鈴木さんはカメラの手入れを私はメモを整理しながら、今日一日の取材の所感を語り合ったものである。

お互いの所感はおのずから日朗上人と波木井公とが宗祖の御遺命によって七面大明神を山頂に勧請したという伝承が、果たして史的事実であったかどうか・・・・・ということにしぼられていった。

前にも妙石坊の処でふれたように、七面大明神が高座石で影現されたことを事実として信ずる以上、或いはその場であったか、或いは西谷の御草庵に帰られた後であったか、或いはその後の御散策中のことであったか、そのいづれにしても宗祖が、七面大明神を山頂に勧請するよう、おそばにいた常随の弟子日朗上人を始め他のお弟子達にも仰せられたということは、寧ろ当然ありうることであろう。

七面大明神が影現した。一座の者はすべて驚倒・歓喜した。まして大明神が末法万年の法灯をかかげる霊山身延と、法華経の行者を擁護すると誓われた以上、宗祖がこれをそのままにほっておかれるはづはない。

苦悩する者の苦悩を除き、擁護する者には擁護せしめて、すべての者にその所を与えしめるのが法華経の菩薩道ではないか、ということであった。

夜は既にふけている。身延山と七面山の谷間にある赤沢地区は、長い歴史を秘めて、恰も太古の底に沈むが如く深く眠っていた。


さて一夜明けて、旅館の二階より眺むれば、峨々たる七面山は朝霧の中にけむっている。麓より湧いては消え、消えてはまた湧き、波のように流れて行く朝霧は、そのたび毎に山肌を、或は濃く、或は淡く写し出し、遥かな山の陵線の、杉の木立を影絵のように浮かびだしている。

千変万化する霧の中の七面山・・・・・・・・時の経つのも忘れて眺めていれば、夏とはいえ思わずヒヤリとした冷気を覚える。そしてそれは、これより七面山へ登らんとする者の、心を更に引き緊める。何処かで鶏のなく声がする。宿の人が、

「今朝の御来光は、さぞかし立派だったでしょうヨ」

という。それほど七面山頂より眺める富士山の御来光は、七面山へ登る人々にとって大きな魅力となっている。



(※本文は全て昭和35年発行当時のことです。)