眼で見るとは、心にある智慧の作用である。
眼には、五種類ある。
肉眼、天眼、法眼、慧眼、佛眼の五つである。
■肉眼・・・血肉によるもの。制限を受ける眼。
光の制限・・・光で照らされていないと見えない。
距離の制限・・・遠いと見えない。
大小の制限・・・小さいと見えない。
粗細の制限・・・荒すぎるとぼやけて見えない。
器官の制限・・・白内障、緑内障、老眼などによって見えない。
葉っぱ一枚の制限・・・葉っぱ一枚で山も見えなくなる。
※肉眼は何一つ透視することができない。
■天眼・・・千里眼。物事の本質、本能を確実に見極める眼。
百千億那由他諸仏国の神羅万象を見ることができる。
阿那律は、修行当初は懈怠でした。
說法の最中にみんなが一心に傾聴している時、一人だけ居眠りをしていました。
昼間みんなが修行に精進している時に、一人だけ昼寝をしていました。
ある時お釈迦さまが「タニシやハマグリの類は、一度寝ると千年が経ち、仏の名前さえ聞くことがないものだ」と叱咤しました。
阿那律はこれを機に、少し怒りながら精進し、日夜修業に励み、七日七夜睡眠することはありませんでした。
結果、ある日袈裟が破れてしまいます。
自分で縫い直そうと思うのですが、針の穴に糸が通りません。なぜなら彼はその時、失明していたからです。
「誰か私に代わって針に糸を通して功徳を積みに来てください」大きな声で叫ぶけど誰も来てくれません。
ちょうどその時、修行僧たちは托鉢のため外出していました。
「私に功徳を積ませてください」
突然お釈迦さまが現れて、彼のために針の穴に糸を通しました。
阿那律は「世尊!このような小さな功徳でさえ、あなたは喜んでするというのでしょうか?」と質問しました。
「仏に成るということは、無量無数微小の功徳を積み集めることで成しえるのです。私が微小功の功徳の恩を忘れないためにも、あなたのために針に糸を通しました。」
阿那律は、失明したことによって精進にいたった初めの志を悔いることはありませんでした。
むしろそれにも負けずに、日夜功徳を積むことによって、やがて「天眼通」を得ることになったのです。
生きとし生けるものの心のありようや生死の様子を全て見極めることができ肉眼に勝る天眼を持ったことから,お釈迦様の弟子の中でも「天眼第一」と称されるようになりました。
■法眼・・・衆生の機根を見抜く眼。応病与薬で病に応じて薬を与えられる眼。
菩薩は衆生の業力ゆえに方便を施して人々を解脱に導く対機説法をするために必要な眼。
薬を間違えると大変なことになるように得るのが難しい眼。
舍利弗尊者と目犍連尊者は別々に、衣を洗う人に対して「数息観(呼吸に意識を集中する方法で、心意を安定させる)」を修めるための教えを説き、鉄匠師には「不淨観(身体の本質は不浄であると観察して異性の誘惑に打ち勝つ)」を修める教えを説いた。
しかし時間がたっても、なかなか修行の成果が見られなかったので、ふたりの尊者はお釈迦さまに教えを請う。
「衣を洗う人は每日人の体から出る汚れを見ている。そのため『不淨観』はすぐに習得できる。毎日仕事のときに自分自身で気づくことができるので、まず不淨観を習得させなさい。
鉄の職人は、毎日鉄を打っている。鉄をたたく様子は人の呼吸のようである。そのため、まず数息観を習得させる方便がよい。
なるほど。二人に修業の方法を変えさせたら、すぐに修行の成果が出ました。
このような見抜く眼を、法眼と呼びます。
■慧眼(智慧眼)・・・有相(うそう)の分別を棄した眼。無相の真理を照見する(明らかに見極める)眼。
■佛眼・・・以上四つの眼を備えた眼の総称。