円頓戒とは、完全円満に(円)すぐに(頓)悟りに至るための戒です。
その内容は、『法華経』と『梵網経』に依拠しており、具体的には『梵網経』に説かれる十重四十八軽戒のことを指します。
戒とは、サンスクリット語で「シーラ」と言い「習慣」を表します。
どのような習慣が記されているかというと、人を殺してはいけない、盗んではいけない、嘘をついてはいけない、といった内容です。
そのため、現在では道徳や倫理という言葉が当てはまる習慣となっています。
戒を持つと世の中を安全で平和な社会にすることができます。
しかし、円頓戒は別名、円頓菩薩戒とも呼ばれ、菩薩が持つための習慣であるため、すべての習慣を保つことは難しいです。
浄土宗を開いた法然は、自分を戒を守れる器ではないと言及しました。(三学非器)
どうしてそんなにも難しい戒を釈尊(ブッタ)は説いたのでしょうか。
ここでは、円頓戒ができた経緯の原点をたどってみましょう。
そもそも、戒というモノができたのは比丘・比丘尼(僧侶・出家者)が集団生活を始めるようになってからです。
当初は無かった戒が、教団が大きくなるにつれて数を増やしていきました。
最終的に比丘(男性僧侶)は250戒、比丘尼(女性僧侶)は300戒を越えるまでに膨れ上がっていきます。
一体どういう基準で、戒の数は増えていったのでしょうか?
その基準になったのは、<和>の精神です。
仏教を深く学んだ聖徳太子の時代の「和を以て尊しとなす」とい言われた、その<和>です。
仏教教団が大きくなるにつれて、様々なわだかまりが教団内で発生するようになりました。
そのような問題が発生するために、釈尊(ブッタ)は戒を制定し、人々が修行しやすい環境を整えていくようになります。
もちろん戒を持っていても、煩悩はおきます。
それは、私たちが菩薩ではなく、凡夫(人間)であるからです、。凡夫は、心を涅槃させられていないため煩悩がおこります。
例えば、お酒を飲みたいとか、肉を食べたいとか、ちょっと疲れたから手を抜きたいとか、、、
そのため法然も嘘をつくことなく、正直に、自分は戒を守れる器ではないと言いました。
しかし、円頓戒の根本精神である<和>を心に持つことで、菩薩に一歩近づけるのです。
願共諸衆生(願わくは共に、諸々の生きとし生けるもの)と円頓で和のある社会を築き上げていきたいものです。