今日も、杉田玄白の「耄耋独語」の続きから話をすすめてみたい。

前回の出だし、いわゆるプロローグ部分は主に歯の重要性を謳った意義付け文となっていたが、これより玄白自身の歯牙欠損のレビュー、その既往ならびに不自由さの独白になる。

耄耋独語
しかしだれしも初老(四十歳)のころになると、すこしずつ身体のなやみが出てくるものである。歯もそうなのだが、私はさいわいにも通例に反して、耳順(六十歳)のころになってはじめて少しずつ歯が具合が悪くなってきた。
だがいったんそうなってからは、今年は一本、また今年も一本と減りはじめ、ついには先月は一本、今月は二本という勢いで欠けていって、いまはもう一本の残りもなく落ちつくしてしまった。
そのため固いものといったらなにも食べられなくなってしまったが、八十に余るこの年まで生きて、めずらしい料理もうまい料理も、名菓美味をみな食べつくしてきた身であってみれば、いまさらこれといって食べてみたいものもないから、どうということはない。
ただ、三度の食事にはこの口で食べられるものだけをとっているが、そのたびごとにどんなに気をつけても、歯という垣根がなくなってしまっているため、ときどき口中から食べものをこぼすことがあって、むさくるしい。また、歯がまだ一、二本ばかり残っていたうちは、熱いものを食べるとき、いつも知らず知らず息を吹きかけてさましていたらしく、そんなことに大して気づきもしないでいたのだが、残らず落ちてしまってから、はじめてそれができない不便さに気づいた。つまり、やわらかいものでもちょっと唇にくわえてから食べなければならないのだが、もしそれが熱いものだと、さましようがないから、熱さのため食事のたびごとに口の中にやけどをしない日とてないありさまなのである。麺類などはやわらかいので食べやすいはずだが、じつはこれもちょっと歯にくわえて呑みこまなければならないものなので、あまり気に入らない。食べるのに不自由なものだから、あまりほしいと思わないのである。まして魚の類はその骨を舌で探りながら食べなければならないものなのに、その相手となる歯がないのだからどうしようもない。もしそれでも魚をむさぼり食べたりしたら、骨を噛んでしまってわずらいを起こすのではないかと考え、結局食べない方がましだとあきらめてしまうことが多い。~(以下、略)
*『日本の名著 22 杉田玄白他』(芳賀徹責任編集、中央公論社刊、1979.)より


「(歯が)今年は一本、また今年も一本と減り始め・・・」という記述を見る限り、虫歯のために歯が徐々に崩れて欠損が進んだと考えるよりは、歯周病で失っていったと捉える方が良さそうである。60歳頃から歯を失い始め80歳で全てを失ったとのことだが、これは現在の日本人における平均的な欠損進行様相とほぼ同じである。

*拙記事
無歯顎の”推移” -平成23年 歯科疾患実態調査ななめ読み-

歯を失った不自由さは非常に卑近なエピソードで説明している。咀嚼と直結する訳ではないものの、魚を食べる際、口の中でその骨を触知することもできないと嘆くくだりは体現者でなければわからない悲痛なものである。


江戸時代後期の平均寿命が45歳前後であったことを考えると、玄白はたいへん長寿であった。
彼自身、その秘訣は養生であったと述べている。
玄白の古希の前年、一族、門下生により祝う会が催されたが、そのお返しに送ったとされるのが養生訓「養生七不可」である。
なお、「養生七不可」の原文は,国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで見ることができる。

養生七不可

*画像は、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーWEBページより

「ストレスをためるな、食や生活に節制を」と現代にも通じる訓示が掲げられている。
この記事の締めくくりとして、この七箇条(現代文)をあげておく。

『養生七不可』

一 昨日の非は恨悔すべからず。
二 明日の是は慮念すべからず。
三 飲と食とは度を過ごすべからず。
四 正物に非ざれば苟しくも食すべからず。
五 事なき時は薬を服すべからず。
六 壮実を頼んで房を過ごすべからず。
七 動作を勤めて安を好むべからず。


つづく