今日はいのち煌めいて【第5章】を更新しております。
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二回目の抗がん剤治療は益々パワーアップ‼️
治療後の吐き気もまたまた一回目と同じように
辛い時間が続きました。

一回目より強い抗がん剤だったのでしょう。

一回目の時と違い、白血球が 大幅に減り始めました。

健康な身体の人では、通常血液中 1m3中に5000〜7000個の白血球があるといわれています。

抗がん剤治療から10〜12日目頃、私の白血球の数が減り始め、一挙に1000→900→700と尋常でない減り方をしました。

抗がん剤はがん細胞の分裂や発育を阻止し、
がん細胞を叩くと同時に、
他の健康な細胞にも大きなダメージを与えてしまいますから、その影響で白血球が減少します。

1000以下になると外界からの雑菌に対する抵抗力が弱くなる。
その為、病室に入る人は消毒液で手を洗い、
白衣とマスクを着用しなければならないし、
子供達の入室も禁じられてしまった。

殺風景な病室を華やかに飾ってくれていた
沢山の花も全部外に出され、
私自身もマスクをつけ寂しくなった病室で
薬のせいで気力も無くなった身体を横たえ、
うつらうつらしていた。

500以下になると、それこそ無菌室へ行かなければならなかったが、私はかろうじて600代後半で、踏み止まっていました。

どうにか こうにか持ち堪え、
やっと白血球が少しずつ上昇し始めた頃、
目覚めた朝、
黒い髪の毛が抜け落ちベッタリと枕に張り付いていたのでした。

それは、本当に唐突に衝撃的に始まりました。

私は頭に手を回し、髪の毛をそっと掴んだ瞬間、
私の髪の毛は根元から何の抵抗もなく、
ゴッソリと抜け、手のひらは髪の毛でいっぱいになっていたのでした。

入院前、先生からのご説明で脱毛に備え、
髪の毛もバッサリカットして、
心の準備は出来ていたつもりでしたが、
その覚悟も直ぐに打ち砕かれてしまいました。

シャワーの許可がおりて、
久しぶりに大好きなシャワーを浴びた時でした。

勢いよく出るシャワーのお湯を頭にかけた瞬間、
髪の毛がお湯と一緒に次から次へと抜け落ちたのでした。

ユニットバスの排水口は、
私の髪の毛でたちまちふさがれ詰まってしまい、
お湯が溢れ出してしまうほどでした。

何回も何回も手でかき集め、
とにかくシャンプーを洗い流し、
バスタオルで身体を包んで、
湯気で曇った鏡を恐る恐る手で拭いて、
自分の姿を写して息をのみました。

鏡の中には頭のあちこちに地肌がむきだしになり、
伐採されたハゲ山のような頭ありました。
私は身体が震え、涙が出て来るのを止めることができませんでした。

「こんな頭では病室から出られない。人前には出られない!」
と、かなり落ち込んでしまった。

次の朝も目を覚ますと、
枕の周りは抜け落ちた髪の毛でいっぱいだった。

このまま髪の毛が全部無くなり、
もう生えてこなかったらどうしょう。

子供達はこんな頭を見てどう思うのだろう。

髪の毛を拾い集めながら、
やはりあれこれ 考えてしまった。

そんな弱気になっていた私の気持ちを癒やし
奮い立たせてくれたのは二人の子供達でした。

今年34歳と32歳になり、もう立派なオジサンとオバサン(笑)の二人、、、( ◠‿◠ )

もう25年もの年月が過ぎたというのに
私の耳朶には幼い二人の
「早く、帰ってきてね!」
と言ういつもの一言が今も残っています。
電話を切る間際二人が語りかける声は、
決まって最後は「早く帰ってきてね!」だったのです。

私も二人の待つ家に1日も早く帰りたい、帰らなければ、、、と気持ちを奮い起こして、これからの手術や治療も乗り越えられる!と自分に言い聞かせたのでした。

三日間くらいで私の髪の毛はほとんど抜け、
打ちひしがれている時も、
二人が私に大きなパワーを与えてくれた。

子供達との面会が許され嬉しい反面、
とても不安でした。
こんな頭を見てびっくりするだろうな、と。
ところが、子供というのは母親が落ち込んでいる事を察するのでしょうか、まるで励ますように、
「チャーちゃん、可愛い!マルコメ君みたい!」
「ワァーイ、一休さんダァー」
と言って、私の周りではしゃいで
ツルツルの頭をいい子、いい子とやるように撫でてくれたのでした。

二人の言葉が私にはどんなに励みになったか計り知れません。
それからは一休さんのようなツルツル頭も
微笑んで鏡を見ることが出来るようになりました。

メソメソしていたら免疫力が落ちて
またがん細胞がのさばって来るかもしれないし、
脱毛したということは抗がん剤が効いている証拠だと、前向きになることができました。

そしてツルツル頭の私に妹の幸子がカツラを手配してくれました。

故夏目雅子さんのお兄様が雅子さんのために
色々カツラを捜し求め、その後ガン患者さんたちの為の基金を立ち上げられた。

そちらへお願いしてカツラを作っていただきました。

でも、雅子さんは結局一度もお兄様の選んだカツラを使うことなく亡くなってしまったと、辛いお話を後日  伺いました。

不思議なご縁で、今私は雅子さんの弟さんのプロゴルファー小達  敏昭氏のレッスンスクールに通っているのです。

入院して40日が過ぎ、夏も本番になって来た。
京都の夏は暑い。
それなのに、看護師さんが野戦病院と言っていた
私の病室のある古い病棟は夜になるとクーラーが止まります。
なので、家から持って来た冷風扇で暑さをしのぎながら必死にがん細胞と闘っていたのでした。



この続きは【第6章】にて…ニコニコ
次回もぜひよろしくお願いします(^^♪

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この写真の次の年、二人にも大きな試練が来るとは想像もしていなかったでしよう(T ^ T)


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