もはや都会も田舎も関係なくなちゃったのが街にも動物が次々に出現する問題・・・。
山の食べ物が不足しているから~~っと説明する専門家のご意見も一考かと思いますが、本質的にはそうではなく、過疎化による縄張りの変化としか考えられないのです。
かつて山里に暮らしていた人たちと動物との間には、ある種の契約が結ばれていました。この山里から市場(現在の都市)へ越境することは許されないことであり、動物たちは山里の人たちが整備した自然の環境の恩恵を受けて生活を営んでいたのです。
しかし「自由」という思想は、徐々に曲解と変化をつげ、いつのまにか「人生好きなように生きる」という意味へと変容。
本来戻るべきふる里は過疎化し、自然は荒れ、野生動物にとって山里というラインはついになくなってしまいました・・。
こうなると、無法地帯となった山里からは動物も越境してきます・・・。
米がない~~~っと言ったところで、生産者がいないのですから、お金をなんぼばら撒いたところでどうにもなりません。
田舎に暮らしていると、都会で騒がれている諸問題の根源を身を持って知ることが出来ます・・。
自己承認欲求がどうのこうのと言ったところで、それを自然の木々や流れる小川、果ては植物や動物に訴えかけたところで、彼らにはどうでもよいこと。
本当に大事なことは、全てがバランスよく助け合って生活することしか方法がないということを大自然はよく教えてくれるのです。
先人は「人とは心の目をもっており、それは自身を見る眼ではなく、困っている他者を見る力を養いなさい」という考え方を持っていました。
その答えを知るためには、ご自身に目隠しをして歩いてみるとよくわかります。
如何でしょうか?
手探りをしないと、何も見えないので怖いはずです・・・。
そんな時、手探りをし、1番安心するのは壁ではなく、貴女の手をとって一緒に歩いてくれる他者(家族・仲間等)の手のぬくもりだと改めて感ずることでしょう
これを先人は、人は誰でも困ることばかり・・・その状態を「手で他者によりかかる」という意をこめて「手依る(たよる=頼る)」という言葉を誕生させました。
次に手を取って貴女を救ってくれる行為を「手依られた相手に、自らの手で救う」という意をこめて「手救け(たすけ=助ける)」と言ったのです
この目に見えない現象を「自分の生活必需品で足りないもの」に置き換えてみます。
すると、全ては自分の生活に足りないものを他の誰かがどこかで生産し、それを譲り合って生きているという当たり前のことに気づくはずです。
これが傍(はた=自分の周囲の意味)を楽にし合って生きて欲しい・・したがって「傍楽=働く」という人生の意義を後世に託した先人の思いそのものなのです
今までは、田舎の方々が何とか子や孫が都会で苦労しないようにと、生産を続け里山を守ってくれました・・・。口には出さないけれども「きっと・・いつか帰ってきて、次世代の孫達を守ってくれる」と信じて・・。
しかし現時点では、過疎どころか里山は崩壊、環境は崩れ、このままですと、おそらく未曾有の土砂災害や動物による事故は日常茶飯事になることでしょう・・・。
頼り頼られ、助け合って生きる・・・。一刻も早く地方再生に取り組まないと、都会とて持たなくなる瞬間はそこまで迫っているのです・・・。