節分行事のお手伝いで児童施設に訪問しました!
鬼役で逃げ回っていたところ、女児の一人から「ね~なんで鬼っていうの?」と聞かれました。
鬼は人の心に宿る「隠(おん)」という裏の側面が語源・・・・なーーーんて説明出来るわけがない
「貴女もイライラしたり、怒ったりすることってあるよね!そんな心は鬼が君を操っているんだネだから追い出そうっていうのが今日の豆まきなんだョ・・・」って説明しました・・・。
すると児童から金言が帰ってきたのです
「おじさんそれって違うと思うよ・・・。いい心が福でも、悪い心が鬼でも、それはどっちも内にあるんだから・・福は内!鬼も内!じゃん」
いや~~これは至言です
この子との出会いにひたすら感謝しました~
ところで、私達大人はもう一歩先んずる倫理観をもって成長する子供達に教えていくべきことがあってしかり
最近、高校生や大学生から受ける相談に「私って自分で自分がよくわからない人なんですぅ~~」っと、本気で悩んだり、「とにかく将来が不安なんです」といった類が多く見受けられます。
おそらく「君はこの世で特別な存在」と教えられてきたのでしょう・・・。
こうした育て方は悪いとは思いませんが、あまりにも抽象的だと思うですネ・・・。
両親から産まれてきた子供は、両親にとってかけがいのない存在であり、それは特別であります・・・がっ!それは、よそ様とて同様。
なぜこれほどまでに「世界で一つだけの」・・・とプレミア感が必要なのでしょう・・・。
先人が「神様」と畏怖してきた背景には、「神」とは「隠れた身」で「隠身(かみ)」であるからして、その根底には「見えない」=「わからない」存在と明確に解いてきました。
そりゃそうです。
「この秋は雨か嵐か知らねども今日の勤めに田の草を取る」という言葉があります。
春に入り、地域皆で、稲作や農作業を始めるにあたって、この秋は絶対豊作ーー!!・・・なんて保証はなく、とにかく「わからない」・・・・それでも力をあわせて働かないと生きることが出来ません・・。
先人のはこれを「生きるための知恵」、つまり「生の知=命」と言いましたが、言い換えれば「死なないための知恵」とも言えるのです
神さまって、どうしても西洋的なイメージが先行してしまって、日本本来の「神さま」の意味が理解されない・・・←しかしよく考えれば、自国の神様の意味すら教えられない国柄になってしまっていることは悲しいネ
つまり、目に見えない存在は、四季の移ろいのみならず、天変地異も地域の趨勢も、そして個人の人生も、すべては「隠身」=「わからない」のです・・・。
しかし先人がそこに祭りという物理的行為を行い感謝をするのは、死なないための祈りだけ・・・というわけではなかったのです。
だって「神様のご利益」に「限定」という概念ってないでしょっ
そう!先人は、すべてが「わからない」という時間的流れの意に加えて「未知数」という「無限の可能性」という希望も込めていたのです
だから「この秋は雨か嵐か知らねども」・・・先のことはわからないけれども、それでも世のため人のためになすべきをなし、「豊作以上の恵み」したがって「そこはかとない可能性を実現する力」をわたしたちは持っている存在なんだとそれぞれの人生観に込めて生活をする民族なんですっ!っと、捉えて欲しいのです
自分のことがよく分からないことも、将来が不安なのも、それは私にだって分かりません・・・。
でもネ!それが普通だし、貴女って本当にわからないからこそ、貴女には無限の可能性があるって、古の先祖は今に伝えているんじゃないのかな?・・・って、お答えしています
見えないことが不安ではなく、見えないからいいっ
それが福も内!鬼も内!の真髄なのかもしれませんネ
心理学では「不定率効果」といいますが、すでに1000年以上昔から、我が国にはこうした思考があったのです