間髪をいれず
野球の事はあまり知らないのですが、甲子園は選手の気持ちが伝わってくるので、大好きです。
この春夏連覇の沖縄興南高校監督の事が新聞に載ってましたので紹介します。
今まで数多くの監督やコーチなどの指導者に出会いましたが、強いチームの指導者には共通して言えるところがあるように思います。
規律が鍛えた集中力
「細部」が栄冠を
ピンチにもチャンスにも表情の変化を読み取らせない。
選抜高校野球、沖縄の興南高校、我喜屋優監督は最後まで落ち着いていた。
本紙「この人」欄(4日付)での言葉が鋭い。「野球は間髪のプレーが勝負を分ける。就寝時間は1分遅れても許しません」
1分遅れ。ここが重要だ。消灯を確かめたら暗闇に青い光が浮かんだ。携帯電話のメール。「その子は翌日の試合に連れて行かなかった」。
59歳の揺るがぬ姿勢が栄光の旗を握らせた。本物のスポーツでは、まさに「間髪」の境地に勝負は決する。
間髪をいれず。「かん、はつをいれず」と区切って読む。
間(あいだ)に髪の一本の通る隙間だ。不意に襲う難しい打球を普段の出来事のように処理できるか。
キーワードは「緊張」と「環境」である。
練習では細かなミスまで見逃さない。寮の消灯時間のような規律も妥協しない。そんな指導者の厳しさによってのみ「とっさ」の反応は身につく。ここは才能だけでは届かぬ領域だ。
練習時間や合宿という限定された時間と空間にあっては「緊張」の極まで集中する。しなくては仲間と認められない。そんな「環境」をつくり上げる。やがて緊張は身体化されて、もはや当たり前となる。誇らしくも感じられる。勝つ集団と個人である。
こう書くと、軍隊調の息苦しさを覚える読者もおられるだろうが、そうではない。 鬼軍曹の鉄拳制裁におびえるのは緊常というよりは萎縮である。 萎縮を避けられるかは、指導者が「個人の尊厳と自由を尊重する気持ち」を有しているかにかかっている。
チームとして絶対にゆずれぬ規律については「1分の遅れも」許さない。
しかし「どちらでもよいことなら選手の自主性に委ねる。根底で教え子の人格を肯定しているからこそ、時に厳格な強制も意味を持つ。
筆者にも記憶がある。学生時代のラグビー部は時間厳守を重んじていた。夏合宿へ向かうバスは何があろうと定刻に出発する。誰かがほんのわずか遅れた。走って追いかけてくる。無視。遅刻者は鉄道で合宿先に向かう。実はこちらが先に着く。みんなを待ち受ける顔の申し訳なさそうな感じ。
あの瞬間、チームは何かの力を得ていたのだと思う。
中日スポーツ「この人」より
