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なぜ「世界の王さん」には皆がついていくのか

なぜ「世界の王さん」には

皆がついていくのか


プレジデント 2009年2.2号

スポーツジャーナリスト 高田實彦=文


王の信念の一つに、「人に迷惑をかけない」というのがある。小さいときからの両親の教えである。


★「人に迷惑をかけない」という信念


王貞治は、ソフトバンク・ホークスの監督を退任した2008年の10月下旬、福岡から上京して新聞・通信・テレビのマスコミ各社を回った。これまでのプロ野球監督で、マスコミ各社に退任挨拶回りをした監督は一人もいない。東京では20を超す社を2日間に分けて訪問した。
その席で王は「長い間ありがとうございました」といって頭をさげた後、こういった。

「今後は秋山を支えていきます」

秋山とは自分の後任の秋山幸二監督のことである。これからホークス会長として球団に関係する立場だとしても、みずから出向いて礼をいい、後任者をよろしく、といった監督も日本のプロ野球で初めてである。

この一件に王という人間の在り方が象徴的に出ている。

王の信念の一つに、「人に迷惑をかけない」というのがある。小さいときからの両親の教えである。父の仕福さんは戦前に中国・淅江省から来日して日本人の登美さんと結婚し、ラーメン屋の「50番」を営みながら長男を医者に、二男を電気技師にして、やがて故国へ帰って貧しい人々の役に立ちたい、という将来を夢見ていたが、日中戦争が始まってしまった。ただでさえ異国で生活するハンデのうえに日本と故国が戦うという異常な環境の中で生きていくには、「人に迷惑をかけない」ことが絶対的に必要なことだと思ったからだろう。子どもたちは両親の教えを守った。兄は父親の願いどおり医者になった。

王は両親からもう一ついわれていたことがある。「おまえは二人分生きるんだよ」ということだ。王は双子で、もう一人の女の子は生まれてすぐ亡くなっていたからだった。

王の人生を振り返ってみると、両親にいわれたこの2つを忠実に守ってきたように思われる。

現役時代は人の2倍も3倍も努力した。巨人入団後、荒川博コーチとの文字どおり血の出る練習をした裏には、荒川コーチが別所毅彦ヘッドコーチらから、「甲子園の星はいつになったら打つんだ。あんた、コーチだろ、早く打たせろ!」と責められていることを知っていたからだった。王は、「最初は荒さんのために練習しなきゃ、っていう気持ちだったね」といっているが、一本足打法で初めて打ったときもそうだった。

昭和37(1962)年7月1日。「試合前に荒さんが血相変えてきて、おい、何でもいいからきょうは一本足で打て!」といってきた。王は、何かあったな、と直感して立った打席で、練習でタイミングを取るためにやっているだけで打法としては未完成な一本足で打った。幸いホームランになった。後に荒川コーチは、「あのとき打てていなければ今日の王はいないね」といっている。

色紙に「努力」と書いてその座右の銘どおりに努力し、師と仲間に恵まれ、やがて「相手を思いやる」人間性をつくりあげていった。義理堅く律義で、相手の立場を尊重して希望を奪わず、筋を通し、規則や規律を守って正論を吐く野球人になっていった。

ホークス監督時代に、FA権を手にした城島健司が、大リーグへ行きたいといってきた。城島は監督になったとき高校からはいってきた新人で、捕球やリードはめちゃめちゃだったが、打力を評価して使い続けリーグ屈指の捕手に育て上げた。監督就任から5年目でようやくリーグ優勝することができたのは、守りの要である捕手の城島が一人前になったからだった。それまで、王は球場で卵を投げつけられ、マスコミにたたかれ、中洲では飲むこともできなかった。その肩身の狭い自分を解放してくれ、このあとホークスの黄金時代を一緒に築いていこうという大事な仲間がチームを離れたいというのだ。監督としては困る。しかし引き留めるどころか、「大いに頑張って、また帰って来いよ」といって送り出した。

井口資仁の場合は、球団フロントが前年更新した契約で、「希望する時点で大リーグへ行くことができる」という特約項目を認めていたため、7年目でポスティングシステムによる大リーグ行きとなった。このとき王は腹が立った。城島はFAという筋道を通してのものだったが井口は、フロントが監督の手の届かないところで特約をつくっていたからだ。王は、「野球と球団を愛していないやり方だ」とマスコミに正論をぶつけた。


★後輩を叱責した苦渋の涙

小久保裕紀が前代未聞の「無償トレード」で巨人へ移籍したときもそうだった。当時、球団上層部が経営面や人事面でごたごたしていたこともあって、中内正オーナーが大学の後輩である小久保のために、と独断で決めたものといわれた。選手会は反対して優勝旅行に行かない騒動になった。王は「四番を無償で出すとは異例すぎる」と球団のやり方を批判した。そういういきさつがあって出て行った小久保がボロボロになって巨人から帰ってきた。王は、「よその飯を食ったのはいい経験だったな」といって迎え入れた。

筋道の外れたことを嫌うのは若いときも同じだった。巨人時代の昭和43(1968)年に、門限破り常習の若いエース堀内恒夫を殴ったことがある。遠征先の名古屋の宿舎で、堀内は門限の少し前に帰ってきたのだが、部屋にはいる前に玄関口で大声で電話していた。それを聞きとがめた王が2階の大広間へ連れて行って、座らせて一発殴った。かねてどこかで戒めねばと思っていたのだろう。堀内は、「なにするんだ!」と怒って見返した王の頬に涙が光っているのを見て、二発目を殴られた。以後、堀内は大っぴらな門限破りを慎むようになった。王が28歳のころである。

巨人時代の昭和50(1975)年。就任したばかりの長嶋茂雄監督が最下位に低迷したその最中だった。目撃したのは広島の中華料理店でだった。試合の後、王は柴田勲、土井正三らとテーブルを囲んでいた。会話は試合の反省からメートルが上がるにつれて、ことに柴田と土井が、店の隅にマスコミ数人がいるのを意識してかしないでか、長嶋監督の采配批判に発展していった。王は2人の激しい語りを笑いながら聞いていたが、やがて、「もういいだろ。気が済んだか」といって黙らせた。

「プロの選手は、みんな自分が一番だと思っている人種なんですよ。酒を飲んだときくらいいいたいこといわなきゃ、やってられないっていう面もあるんですよ」

その年、王はオープン戦中の故障がたたって不振で、「四番が打てないからね」といいつつ苦闘のシーズンを送っていた。もし王が同僚のナキに同意していたなら、長嶋巨人は空中分解していただろう。

「四番の重責」は、ON時代のNを通して12分に知っていた。川上哲治監督はミーティングでよく長嶋を例に出して叱った。「四番がサインを見落とすから勝てんのじゃ、しっかりしろ!」という具合である。しかし王を怒鳴りつけることをしなかった。川上は、「長嶋は叱ってもさらりと受け止めてくれる。王を叱ったら口をきいてくれない」と2人の性格を知って長嶋を叱られ役にし、長嶋もわかっていたのだったが、王は、「それだけ四番は重責なのだ」と肝に銘じていたのだ。

ホークスでは四番の松中信彦に気を使っていた。担当記者は、「松中は見たところはサムライ豪傑みたいだけど、実は気が小さくて、くよくよするたちで、打てないと滅入ってしまうし、くそ真面目で、仲間の面倒見はよくない。選手間では人気がない」と松中を評している。入団時から守備が下手くそで、「ゴロをポロポロやるどころか、バックホームや三塁へ山なりの球しか投げられなかった」ともいっている。根が真面目だから練習して何とか投げられるようになったが、守備下手は相変わらずである。

パ・リーグにはそういう選手用にDHという便利な使い方があり、王もDHで起用した。ところがその松中が、「守らせてください。打つだけだとリズムが狂いますから」といってきたのだ。コーチたちは反対する。しかし王は松中の意向をくみ入れた。

「四番には四番のプライドがある。少しくらい下手だって打てばいいのだ。ボクだってチームで一番守備が下手だったんだから」

といって松中を先発で守らせて四番で使い続けて、三冠王を取らせた。

余談になるが、北京五輪の星野ジャパンの敗因の一つは「日本の四番がいなかった」ことだったと思う。四番になりたての阪神・新井貴浩や、まして横浜・村田修一や埼玉西武・G.G.佐藤では荷が重すぎた。対して韓国は、巨人で二軍落ちしていたイ・スンヨプを四番に置いて、打てなくても打てなくても外さなかった。その四番が準決勝でホームランを打って日本を死地に追い込んだ。対キューバの決勝戦でも打った。イ・スンヨプはWBCで四番を打った「韓国の四番」である。日本でそれに匹敵するのが松中だった。星野ジャパンは、その「日本の四番」がまだ健在だったにもかかわらず、選んでいなかった。


★現役時代の王は、開幕前に毎年のようにこういっていた。


「ことしは一本も打てないのじゃないかと不安になる。だから練習するのです」

スランプになって顔がげっそりやせても練習をやめなかった。少し休んだらどうですか、と声をかけると、

「いや、ボクは練習でここまできたのだから、また打てるようになるには練習するしかないんですよ」

と、答えはいつも同じだった。

ことし西武の練習がアーリータイムといって評価されたが、ホークスのキャンプ練習は王が監督になってからずっとアーリー・アンド・レイターだった。かつて高知でキャンプしていたころは練習量が猛烈な小久保に松中と井口が従っていた。巨人と同じ宮崎でキャンプするようになってからスポーツ新聞の遊軍記者たちは、巨人の練習が終わってからホークスの練習を見に回った。それで十分に練習が見られた。すっかり日が落ちたころ川崎宗則が松田宣浩や本多雄一らを連れてベンチへ戻ってくる。

球場周辺には大勢のファンがサインをもらおうと待っている。王はサインする場所を決めて、1日に200人限定でサインしていた。選手たちは30分おきの帰りのバスがくるまで、「今度のバスまでね」といいながらマジックを走らせていた。

「ファンは宝ですよ。ボクたちはお客さんに見てもらってナンボでしょ」

その王から、2008年10月下旬に東京新聞・東京中日スポーツに挨拶にこられたとき、サインをもらった。それには昔の「努力」の代わりに、

「氣」

とあった。

体を痛めて、50年間にわたって着たユニホームを脱いだが、王にはまだまだ気力を振り絞ってやることがあるようである。 (文中敬称略)




試合前の選手に掛ける言葉

以前JFL西濃運輸サッカー部のトレーナーとして帯同していた頃、試合前の選手に掛ける言葉の難しさをそれほど感じなかったのですが、創部からトレーナーをしているFC岐阜サッカー部の選手等ほど、この言葉の重要性を感じたことはありませんでした。チームとして完成していない事が選手に不安感を抱かせていたのかもしれません。
 最近読んだ本に、
この言葉のかけ方が載っていました。
岩崎由純先生の本で、ペップトークというそうです。


              にしぶ 接骨院  西部 知寿


「ペップトーク PEP TALK」
試合前のロッカールームでは、選手もスタッフも緊張感が高まり,尋常でない雰囲気が漂います。そうした状況で話をする際には、わかりやすく、肯定的で、相手の記憶に残るような言葉を選ぶことが大切になります。
 短く・わかりやすく・ポジティブなイメージを連想させ,魂を揺さぶる試合前のスピーチ。


ペップトークの重要性
①成功の科学と心理学
「イメージは現実化する」

成功するイメージがパフォーマンスにつながる。

②言葉の科学と心理学
「言葉のPower」

人は、褒められた言葉が心にしみこむ。

③教育の科学と心理学
「ピグマリオン効果」

この子は伸びると期待して指導することで成績が向上する。

④治療の科学と心理学
「自己暗示」

成功した時のイメージをもってプレーする。

「嘘も方便」

⑤興奮の科学と心理学
「逆U字曲線」

興奮レベル(精神的緊張)とパフォーマンスレベルが適度な緊張感の時に最高のパフォーマンスが発揮される。

⑥話法の科学と心理学
「メラビアンの法則」

コミュニケーションで情報の伝わり方は言語7%・聴覚38%・視覚55%なので表現豊に役者のように伝える。


ペップトークが成功する条件
3分以内で選手の士気高揚を促し明確なイメージを持たせる。
①状況を把握する。
②目的・目標を明確にする。
③短く・わかりやすく・簡潔に。
④ポジティブな表現を使う。
⑤キーワードを含める。
⑥現在の状況を容認し,進むべき道を示す。


SUCCESSの法則7ヶ条
①SIMPLE      :単純明快である
②UNEXPECTED  :意外性がある
③CONCRETE    :具体的である
④CREDIBLE     :信頼性がある
⑤EMOTIONAL   :感情に訴える
⑥STORY       :物語性がある
⑦SENSATIONAL  :衝撃的感動がある


ペップトークを成功させる為に

話す側の姿勢と聞く側の姿勢が正しく整っていることが大切
話す側は

選手が着替え終わるまで待つ。

場を静粛にさせる。

感情を込めて話す。

聞く側は

用具の整理をやめる。

食べたりしゃべったりせず聴く態勢をとる。

話し手の言葉に耳を傾ける。


優れたペップトークをするための実践課題
①何事もポジティブに考える。
②毎朝自分をアファメーションする。(自分に対する肯定的宣言の言葉)
③ペップトーク用のドラマティックなネタ探し。
④映画等を参考に,話し方や表現法を研究する。


            にしぶ 接骨院  西部 知寿




















【スポーツ 忘れられない一言】

トレーナーの勉強の為に、明治製菓のザバスファンクラブの会員になってます。そのメールマガジンに以前に載っていました。


            にしぶ接骨院  西部知寿


スポーツの名場面、感動の一言には、人生を変えるパワーがある。
スポーツの第一線で活躍した選手や指導者が、決定的シーンでもらした一言は、ゲームや競技の奥深さを教えてくれるだけでなく、彼や、彼女を支えた、人生の哲学が盛りこまれていることが多い。だから、忘れられない。今や、ア・ウェイ・オブ・ライフ・・・欠かすことが出来ない生活の一部となったスポーツをより楽しむために、彼らの一言をもう一度かみしめてみたい。

1 長嶋茂雄
「天才といわれたから、人前では練習できません。人のいないところで人一倍練習しました」
天才の代名詞ともいえるミスタージャイアンツだったが、74年引退後、現役生活の裏側を振り返って述べた。

2 辰吉丈一郎
「弱くて臆病なヤツが強くなる素質も持っているんです」
闘争心むき出しのファイトで人気だったバンタム級世界王者が、その強さの秘密を質問されて、答えた。「自分が弱い人間だから。強い人間は強くなることは出来ないのです」

3 アン・ジョンファン
「プレーをしながらずーっと心の中で泣いていた」
日韓W杯サッカー1回戦、前半5分、彼のPKを止められた。逆に先行され、やっと延長に持ち込んで、後半12分、執念の決勝のヘディングを決めて。

4 篠原信一
「感想は、なにもない。弱いから負けたんです」
シドニー五輪決勝で、内股透かしで一本をとったと思われたが、主審が認めず、誤審とも思われる判定で銀メダルに終わった。判定には一切ふれずに記者団に答えた。

5 福原愛
「負けてうれしい人はいません」
98年日本選手権、10歳の福原が女子ダブルスで破れ、取り囲む記者団に、10分間の沈黙のあとにコメントした。愛ちゃんの自立宣言だった。

6 有森裕子
 「自分は何も持っていない。だから、いつも手をうんと伸ばし、なにかをつかもうと生きている」
 「自分には他人より秀でたものは何もない。他人よりなにかが足りない」
 「私にとって走ることは、自分を表現する唯一の手段だったと思う」
 「私はまだ金をとるほどの苦しみを味わっていなかったのでしょう」
7 イチロー
「言えるのは、小さいことを重ねることがこういうことに到達するただひとつの道ということ。それにしても(きょうは)激アツでした」
1920年ジョージ・シスラー(ブラウンズ)が樹立した、257安打の不滅の記録を84年ぶりに破った

8 植村直巳 冒険家の草分け
「エスキモーの老人夫婦の子供にしてもらいました。・・・親不孝しておりますが、せめて両親にできなかったことを、この子どものない老人夫婦に心だけでもと、慰めいたわっております」
滞在中のエスキモーの村から父へあてた手紙にあった。信じた道をつき進んだ彼の心の底にあった、人間への限りない愛情が伝わる。講演会で口癖だった「どんな冒険も生きてかえらなければ・・・」を信じて、今も生還を待つ親族・友人は少なくない。

9 江夏豊
「本気で技術を磨こうと思うなら、指とボールとを相思相愛の関係にしなければ」
10 片山右京
「それは、ボクのカラダが車になるんですよ。運転しているうちに、脚がぐーと伸びて後輪になり、両手がハンドルを通じて前輪になるんです」

11 ハンス・ヨハン・オフト
「あの勝利はマジック(魔術)でなく、ロジック(理論)だ」
W杯のアジア最終予選。出場にあと一歩と迫った最終戦で、イラクにロスタイムに失点し夢は終わった。ピッチに倒れ込む選手の手を引いて起こしたのはオフトだった。残る課題は、選手自身でしか解決できない精神力(経験と創造)だった。
12  川淵三郎チェアマン

Jリーグの誕生の時に「スポーツを愛する多くのファンに支えられ、今日ここに、その一歩を踏み出します」
13 川上哲治
「自分の打つポイントで球が止まったように感じた

14 北島康介
「プラス思考で、今年はスプリント力を強化します」
メンタル力を、正確に分析すれば、平常心など感情をコントロールする心理的側面と、正確な知識、判断力を管理する論理的側面がある。もてる知識をフル活用して冷静に全力を発揮する、そんな力だ。

15 メジャーリーグのロジャー・クレメンス投手の子コーリー・クレメンス
「パパが引退したのは大歓迎だった。だって、家にずっといてくれるのだもの。でも、家にいながら野球をする話が出た時に、もっと野球するとこが見たいと言ったんだ」

16 古賀稔彦
「最高の調子で勝つのは当たり前です。でも、最悪の時に勝つのも勝負なんです」
「勝負にはこだわります。勝ちたい、強くなりたいという思いから、考えることが始まりますから」
17 ジーコ
「リーダーはどんな時でも、情熱を失ってはいけない」
『試合の結果はすべて選手の心のもち方次第。選手を信じるから、情熱を失わない』

18 アイルトン・セナ 1988年
「ほんとうの頂点がどこなのかまだわからないけど、僕が選んだ道、僕が歩いてきた道には、まだ続きがあるはずなんだ。そしてそのずーっと先に頂点がある」

19 谷(旧姓田村) 亮子
「えー、100歳までですか。頑張ります(笑)」
「ゴールを決めないというのが、私の心の中では大事な部分です。ここまでと決めると、それ以上は人間の力って届かなくなるでしょう」
「世界中に、柔道着がなかったり、畳がなかったりで、柔道をやりたくても出来ない子供たちがタクサンいます。また、お爺さんお婆さんになっても、柔道が出来る環境、そういった方面の力になりたいなと思っています」

20  千代の富士 貢
「人間、いいほうに考えなくちゃ」
挫折のない人生はない。しかし、それをどう乗り切るかで、一流への道が開ける。千代の富士は、「人間、いいほうに考えなくちゃ」を口癖に度重なる逆境を乗り越えた。倒れたら、倒れない工夫をする機会が与えられた、そうプラス思考に転換できる人は成功する。

21  蔦 文也、1971年
「山の子供たちに、大きな海をみせてやりたかった」
野球の素晴らしさはこれだと正面切って、選手にぶつけた監督として、蔦文也さんの名前は忘れられない。大海とは、広い世間をも意味したのだろうか。その3年後にはわずか11人の選手で選抜大会に準優勝、以後高校野球の強豪へ一気に駆け上がった。

22 中田英寿、2005年6月9日
今の代表には、本大会で勝ち抜くだけの力はないと思う」
アジアの争いから世界の頂点決戦へ、意識を切り替えなければ、次はない。選手全員が自ら今の自分
を捨てなければ次代は生まれない、中田はそう呼びかけた。出場は通過点にすぎない。「チームどうこうでなく、個人の意識の問題が一番」と自ら言い聞かせるように付け加えた。

23  中村俊輔 2002年5月17日
「テレビで見て、ああ落ちたなと。選ばれたメンバーよりも、(W杯が)終わった後に強くなっていればいい。悔しいと思えば、また強くなれると思う」
2002年サッカーW杯で日本代表のトルシエ監督が、自らの好むパーソナリティ(人格)を尺度にして、代表選手を集めた。世界級のキックの精度を持つ中村俊輔は、大会直前に外れた。
強豪ブラジルと2対2で引き分けた試合後も、「後半の最後の方は面白かった。また、(今後の)土台になる。個人でもレベルアップしないと」と淡々。

24 ジャック・二クラウス
「私は、ただ一度も本当のストレート・ボールを打ったことがない」

25 ヘール・アーウィン(1945年生まれ)
ゴルフはフットボールより難しい。なぜならエモーション(感情)を吹き飛ばす方法がないからだ」彼はコロラド大学時代にアメフット選手だった。

26  J・M・トレバース(1887年生れ)全米オープンに優勝したアマチュアゴルファー
「ゴルフは両手のゲームだが、頭のゲームでもある」

27 トム・モリス・ジュニア(1850~75年)英国の近代ゴルフの開祖
「上手なプレーヤーは先に考え、下手なプレーヤーは後で考える」

28 20歳で全米オープンに優勝したフランシス・ウィメット
「ゴルフほどごまかしやすい競技もないが、ゴルフほどごまかしたプレーヤーが軽蔑されるスポーツはない」

29 ゴルフ狂の、英国政治家ロイド・ジョーンズ
「下手なプレーヤーほど楽しみの多いゲームはゴルフをおいて他にない」

30  二出川延明、1959年
「私がルールブックだ」
1959年7月19日、プロ野球がスポーツの王様であった時代だ。後楽園球場(現東京ドーム)で行われた大毎(現ロッテ)対西鉄の試合で、2塁でのフォースアウトプレーの判定に、西鉄の三原監督が猛烈な抗議をした。30分中断する混乱に、パ・リーグ審判部長の二出川延明がグラウンドに降り、野球規則の説明をしたが、三原監督は納まらない。そこで、二出川が「私がルールブックだ」と啖呵を切って、試合を再開させた。それほど審判は神聖なものである、と翌日の新聞は美談として紹介した。が、じつはウラがあった。二出川がこの日に限って規則書を忘れ、三原に迫られて、開き直って「私がルールブックだ」と怒鳴ったというのが真相。この事件は審判の重要性を認識させるきっかけとなった。

31 アーネスト・へミングウェイ
「狩猟のルール、それは自然の掟以外にはない」。


             にしぶ接骨院  西部知寿