にしゃんた ☆ ぶろぐ -2009071417510000.jpg

鴨川で等間隔に座りデートしている風景を見ると無意識ながら等間隔を作り出せている人間の能力に感心を覚えます。


人と人の間の(物理的な)距離の取り方が文化によって異なるのです。韓国など旅行すると、日本より近いことに気がつきます。韓国からの教え子に聞くと日本人は距離を開けすぎて冷たく感じるらしい。

大学の朝一の講義の時の出勤はちょうどラッシュアワーにぶつかります。通勤電車は人でいっぱいです。人ヒトひとの中で無意識のうちにだれしもが自分の空間を探しているような気も致します。

今日の出勤、いつもながら、私も隅っこの方で場所を確保。半ば斜めに立ってながら辛うじていた。そこにあとから現れた元気な若人。朝早くから頑張って大学に通ってる雰囲気で、頑張っている姿に感心を致します。

その次の瞬間である、彼のリックサックが私の背中を強く打つ。元気に身動きを刻む度に背中が痛む。もちろんご本人は全く悪気はなく、背中の鞄で誰かを痛めていることなど気づいてない。私には、運転手が、ご自身の車体幅を把握できず暴走している車ようにも見える。あまりにも長時間に渡ってだったので、痛い旨をお伝えさせていただこうとお顔を覗かせて頂いたのです。両耳が大きなヘッドホンをふさがれてしまっていました。

最近とくに、無口、独り言や一方通行の会話が多くなっているとよく聞きます。同じ日本語という共通言語を共有しながらも活かしきれていない、言葉の壁でもあります。

スリランカの乗り合いバスなどの風景を思い出す。席の譲り合いはもちろん、座っている人間が立っている者の荷物を預かったり、知らない者同士の会話が弾む。

日本語の『袖すり合うも他生(たしょう)の縁』などは死後にならねば良いのですが…

目の前の者同士がコミュニケーション出来ない悲しさを噛み締める。