遊廓 | 永劫回帰

永劫回帰

価値なき存在

 
 
 
 
今回は一月にちょっと相方のお手伝いに行った時に、街を彷徨いた記事です。
 
久しぶりの肉体労働?だったのですが、なんせ色男なもんで金と力はありませぬ。←役立たずw
 
まあ本来の目的はさておき、物見遊山で静岡まで逝ってきました。
 
相方と落ち合うのは夕方なんですが、のんびり新幹線に乗る為に朝から移動をかけました。
 
とりあえず朝食を摂ろうと駅のレストラン街でカフェに入店。
 
着席して机にあるメニューに手を伸ばすと、店員が横からさっと別のメニューを差し出します。
 
??朝のメニューは別なのかな?と受け取ったメニューを見ると英語表記•••(´º∀º`)ファーw
 
卓上のメニューと見比べると日本語と英語の違いしかない。
 
どこをどう見たら、この純日本人の顔つきが英語圏の人間に見えるのか?
 
日本語のメニューを見ながら日本語で注文すると、店員は訝しげな顔をしておりました。
 
そういえば以前、相方と外人に間違えられる現象の話をしていた時に、少し女性っぽくも見えないこともない髪型と華奢な容姿で背が170cm以上あると、見る方は外人かもしれないと思ってしまうのではないかと。
 
なるほど、そういうこともあるのかしらん?( `・ω・) ウーム…
 
朝食を済ませると車内で食べるお昼の弁当とアルコール類、アテ等を仕入れてホームへ。
 
 

 

 

 

ホームに上がると自販機の前に何かの液体で満タンに満たされたナルゲンボトルが。

 

割と新しそうなのに、ここでお役御免になったのか、それとも自販機で買った水を詰め替えて、本体を忘れてしまったのか。

 

液体爆弾(Simon Peter Gruberかな?)のテロの可能性もあるので近づくのはやめておきました。(ヾノ・ω・`)ナィナィ

 

新幹線に乗り込んだらビール、お酒で独り宴会の始まり。

 

昼酒は サイコ━━━━(っ*>ω< )━━━━!! ですなあ。

 

 

 

 

 

お昼ご飯は近江牛の牛めし。

 

 

 

 

 

最近の駅弁は蓋を開けると期待通りで、がっかりすることがなくて良いですね。

 

 

酔っ払って寝過ごしそうになるも、昼過ぎに静岡に到着して取り敢えず向かう先は二丁町。

 

時々、グーグルマップのストリートビューで金の掛からない旅をするのですが、その時見つけた「雙街の碑」というのが昔の遊廓跡に関係する物だと知り、訪ねて見ました。

 

 

先に申し上げておきますと、遊廓跡と言っても神社と記念碑以外、何もありませんので少し二丁町の歴史等を記しておきます。

 

二丁町は嘗て静岡市安倍川町(現 葵区駒形通5丁目)に存在した遊廓で、約ニ丁四方(約一万坪)の広さであったところから二丁町の俗称で呼ばれるようになった。

 

日本で初めての公許(お上の認可を受けた)の廓だそうです。

 

元々、駿府は律令時代に国府が置かれ、室町時代から戦国時代は今川氏の城下町として「東国の京」と呼ばれるほど栄えていた。

 

その頃より当然のこととして、世界最古の職業と言われる娼婦は、白拍子、傾城、比丘尼、女歌舞伎、宿屋の飯盛女、風呂屋の湯女等としても存在していた。

 

また浅間神社前には京から赴任した貴族相手の傾城屋もあり、川越しの旅人で賑わい、府中の支配から外れていた安倍川東岸の弥勒(菩薩ではなく安倍川餅を売り始めた山伏の名前から付いた地名らしい)にも遊女屋があった。

 

慶長10年に将軍職を秀忠に譲った家康は、慶長12年に大御所として駿府に隠居(御存知の通り実際には駿府政権で大御所政治を行なった)する為に、駿府城の拡張普請に取り掛かる。

 

普請の賦役を命じられた各藩より、多数の家臣や人足が集まり城下と遊女屋は繁盛するが、遊女の奪い合い、女を巡る喧嘩、口論、諍いが頻発し、慶長12年6月には遊女と船遊び中、酒に酔い見苦しい行為(それは何やろ?w)をしていた薩摩藩士と、それを見て揶揄った姫路藩士との大喧嘩が起こり、喧嘩両成敗として両藩士が切腹を命じられる事態も起こる。

 

慶長12年3月家康は駿府に入り、早くも7月には駿府城の拡張工事が完了し入城するが、12月に本丸からの出火により城は全焼する。

 

翌慶長13年1月より再建が始まり8月には完成するが、この間にも相変わらず遊女らを巡る揉め事は絶えず、目に余った町奉行所は5月に治安維持の為、城下の遊女、女歌舞伎の市外追放令を出す。

 

慶長13年8月に追放した遊女らに割り与えられた土地が安倍川町であり、二丁町の始まりである。

 

慶長14年5月には市中の遊女全てを二丁町へ移すことが命じられる。

 

遊女らを追放しても男達の欲望が抑えられる筈はなく、寧ろ1ヶ所に集めて管理営業したほうが治安を維持できると考えた家康は、長らく鷹匠を勤めていた鷹匠頭 伊部勘右衛門が老齢により引退を願い出ていたので、これ幸いと老後の仕事として安倍川町の土地に廓を作らせ支配を任せた。

 

伊部勘右衛門から廓の設置を願い出て、自費で土地を購入した説もあるが、家康の鷹匠頭を勤めていたとはいえ、一万坪の土地を買う資金があったのかは疑問があるし、鷹匠が遊女屋をやってみようって思うかなあ。

 

当時から遊女、遊廓には邪ま、汚い、穢れという認識があった為、家康が遊廓の設置を決めたというのは世間体が憚られたので、伊部勘右衛門が願い出たことにしたのではないだろうか。

 

家康「ほだ、勘右衛門、おまえ遊廓してみりん?鷹使うのも女使うのも同じだら?」

勘右衛門「ほな、伏見からおんな衆呼び寄せてもよろしおすか?」

と、こんなやり取りがあったとかなかったとかw

 

慶長14年頃?に伊部勘右衛門は安倍川町に廓を造営する。

 

資料によると二丁町の土地は今川時代から切支丹の耶蘇寺(キリシタン聖堂)があり、幕府が禁教令を出した際に老中 大久保忠隣に命じて取り壊させた跡地で、不浄の地として空き地になっていたとあるが、禁教令は慶長17年3月に発され江戸、京都、駿府等の直轄地に対して教会の破壊と布教の禁止を命じているので、廓の造営時期と合わない。

 

禁教令以前に特に駿府の教会の破壊が命じられていたのか、廓の造営が慶長17年3月以降なのかは、色々と資料に当たってみても今のところはっきりしません。

 

 

駿府で家康による大御所政治が始まると、江戸から幕府関係者が派遣され、加番の旗本も多数滞在するようになり、一旗揚げようと続々と集まった商人らで、府中の人口は1万数千人から10万人へと大幅に増加する。

 

二丁町は大繁盛したが遊女の数が足らず(これは格式を重んじて回しを取らなかったせいもある)、勘右衛門は郷里の伏見から遊女屋を移し伏見屋の屋号で営業も始めた。※回しとは、遊女が客を掛け持ちすること。

 

新規参入が増えて二丁町は膨張し、周辺にも遊女屋ができると、二丁町を内廓、周辺を外廓と呼ぶようになり、いずれも諸役御免で繁盛したが、この繁栄も長くは続かなかった。

 

元和2年に家康が死ぬと天下の中心は江戸へと戻り、人口も減り衰退した二丁町から、大半の遊女屋と遊女が江戸へと移り、江戸吉原の始まりとなった。

 

初期には80軒あった遊女屋も飢饉や災害で景気が悪化し徐々に減少(時代によっては少し盛り返したこともある)する中、慶応4年に追い打ちをかけるように伝馬町遊廓が誕生、さらに明治元年の大火で260年の歴史を持った二丁町の建物は全焼している。

 

 

現在、江戸時代の遊廓の遺構等は残ってはいませんが、浮世絵から当時の状況を知ることができます。

 

 

 

歌川広重『五十三次名所図会』府中・安倍河みろく二丁町(安政2年・1855年)

 


二丁町の大門は東海道に面して建てられていたらしく、現在の新通り(旧東海道)付近にあった模様。

 

二丁町は宿場から2.5から3km程離れている為、馬や駕篭で通う客が多かった。

 

格子を覗く遊客が描かれているが、二丁町の遊女は座って客を待つ張見世で他の廓と違い、格子の方を向かず横顔しか見せなかった。

 

 

 

歌川広重『東海道五十三次 隷書版』府中・安倍川(嘉永2年・1849年)
 

この絵にも馬や駕篭で通う遊客が描かれている。
 
笑顔で手を出し合っているのは、馴染み客と遣り手だろうか。
 
廓では顔が障すからなのか、頬被りをしている客が多かった。
 
 

 

歌川広重『五十三次』府中(嘉永5年・1852年)

 


馬の背に揺られて来た遊客と引手茶屋の客引きだろうか。

 

 

 

歌川広重『東海道五十三次』府中・二丁町廓之図(天保11年・1840年)

 


皎月楼演子「たび人も こひをするがの 二丁まち おもひはふじの 雪とつむらじ」と狂歌が添えられている。

 

「こひをするが」は駿河に掛けた駄洒落かな。

 

廓の中が描かれており、当時の雰囲気が分かる。

 

 

 

喜多川歌麿「彩霞楼」(寛政元年・1789年)

 


遊女屋2階の欄干にもたれる遊女と背景に富士山が描かれている。

 

法月俊郎(吐志楼)著『晁東仙郷志』によると「駿河名物一富士に二丁町」と称えられていたらしい。

 

 

どの絵も賑やかで華やかに描かれていますが、商品として使役させられている遊女にしてみれば、日々過酷で死ぬまで永遠に抜けられない地獄だったでしょうね。

 

その反面、江戸時代の遊廓は宗教、芸能、土地の文化と結びついた遊里文化の発信地でもあり、芸術の中心として一種の文化サロン的に発展した歴史もあると思います。

 

自分が廓に売られた女性なら足抜けして、直ぐに捕まって、ぷりぷりにかけられて、あぼーんなんやろあなぁ。

 

 

長くなったので、現地写真と明治期の遊廓については次回にします。



参考文献資料

「二丁町研究稿」小二田誠二

「ふるさと百話 二巻 駿府の花街」漆畑弥一

「地域と女性の社会史」小和田美智子

「駿府二丁町遊廓の遊女屋と遊女」杉山拓大

「静岡県の遊廓跡を歩く」八木富美夫

「遊廓をみる」下革耿史 林宏樹

 

 

 

 

𝒕𝒐 𝒃𝒆 𝒄𝒐𝒏𝒕𝒊𝒏𝒖𝒆𝒅…

 

 

 

 

 

 

 

足抜けした遊女への仕置きが「ぷりぷり」だそうです。