ホウラデス皇国東州ルウズアに位置する帝都スデトュシは城塞都市であり、その宮殿トルカ城下に紺碧の騎馬団200騎が帰還したのは、昼の刻限を回った頃であった。
軍勢の声と蹄鉄の響きに、マーケットの民衆は巨大な城門へ視線を向けると市場を静寂が包んだ。
城門を潜った先頭の馬は一際大きく、紫色に光る躯に緑の立髪を靡かせ、その背にはプラチナブロンドの下げ髪に、抜けるような白い肌と灰色の瞳を持つ妙齢の女が騎乗していた。
スデ・ギサ大帝の長女にして皇国征夷騎士団長を務めるスデ・ソウ王女である。
愛馬スナウトシシを駆るソウは闘いにおいて連戦連勝、人々はいつしか常勝大将軍と称えるようになっていた。
歩を緩めた騎士団は民衆の歓声に迎えられ、ソウは腰の剣を抜き高く掲げてそれに応えた。
「ホウラデスに勝利を!ウーラ!!」ソウが勝鬨の声を挙げる。
「オライオンの加護を!ウーラ!!」ソウの声に民衆が応えた。
馬場に着いた騎士団はそれぞれが下乗し、互いの働きを称えあい馬留に馬を繋いだ。
ソウは下馬するとスナウトシシの手綱を持ったまま、その顔を引き寄せ撫でると頰をつけ暫らく目を瞑っていた。
やがて頰を離すと両の手で愛馬の顔を抱え、見つめ合うように祈りの言葉を口にした。
口さがない人々はソウがスナウトシシを婿に取るのではないかと揶揄していたが、彼女は全く気にする様子もなかった。
スナウトシシは今は亡き母ツジンシが自身共々、異国より連れて来た愛馬リウヤチボカが産んだ仔であった。
幼少の頃よりソウはその背で育ち、精神的な結び付きは家族同然であった。
ソウの背後に左隻眼の老爺が近づいてきた。
ソウは振り返ると隻眼の厩方役アールマ・シャルに抱きついた。
「アールマ、調子はどう?」
ソウに比べて彼は頭ひとつ小柄な老人だった。
「皇帝陛下が首を長うされてお待ちですぞ、姫」
老厩方は開いた右目に微笑を浮かべ、ソウの背中を両手で軽く叩いた。
厩方役のアールマ・シャルは皇帝一族の馬術指南役も兼ね、皇帝に関わる儀式の全てを取り仕切る式部長官でもあった。
ソウは軀を起こしながら「わかったわ、彼をお願い」そう言うと愛馬の手綱をアールマに預けた。
ソウと騎士団副長、部隊組長たちが伏している謁見の間に衛兵を従えたスデ・ギサ大帝が、皇国執政官ギョキ、侍従長キヌタワを伴って現れ玉座に着いた。
スデ・ギサ齢62、その足取りや表情には病を感じさせるものは微塵もなかった。
「大義である」
ギサの言葉に騎士団は顔を上げ、軽く頷いた。
「ソウ、西州では難儀であったと聞き及ぶが」
「憚りながら申し上げます。トイワホ公は、相も変わらず危機感に欠けておられます」皇帝の問にソウは応えた。
トイワホ公爵スデ・ンベウホは皇帝の姪にあたり西州を統治していた。
「決して領外へは打って出ようとはせず、蛮族どもを引き込んで討つなどいささか悠長に過ぎるかと」ソウの言葉には多少の苛立ちが含まれていた。
ギサは軽く笑い声を上げ「そう言うてやるな、ソウ。ンベウホは策士よ。のうギョキ」なお笑い声で執政官に話を託した。
「領民の損害を最小限に抑えるためには、邀撃も有効な計略かと存じますが、時には迫撃もまた必要でございます。しかし此度はトイワホ公の要請による討伐でございますれば、ソウ殿下のお言葉、御尤もであるやと存じ上げます」
皇帝が全幅の信頼を寄せる若き皇国執政官ギョキの言葉は、皇帝へのものかソウへのものかは些か曖昧なものであったものの、ソウと指揮官達を宥めるには充分であった。
「皆のもの、重ね重ね大義であった。褒美を遣わす。下がって休むが良い」皇帝の言葉で短い謁見は終わった。
副長と部隊組長達が深々と頭を垂れ皇帝の言葉に応えた。
ソウが振り返り騎士団へ頷き、ソウ以外の全員が立ち上がり退出すると執政官ギョキも頷き、侍従長キヌタワと衛兵を連れて玉座の後方にある扉から部屋を出た。
扉の閉まる音と同時にギサが息を吐くと、玉座の中でその軀が縮んだように見えた。
ソウは父ギサへ駆け寄ると、その手を取り玉座の前に跪いた。
「お父様、無理をなさってはなりません」その声は父を心配する娘のものであった。
「そうも言ってはおられまいて。ミゴめが元老共を焚き付けておるのをそなたも承知しておろう」謁見の時とは打って変わり弱々しい声音であった。
「叔父様が皇位を狙っておられるというのは口さがない者どもの噂ではありませんか」
「ミゴの奴め焦れておるじゃろう。このまま余が死ねば良し、だがそうもいかぬとなると直に病を理由に元老どもを使って退位を迫って来よるわ」ギサは弱々しい苦笑いを浮かべた。
「まさか叔父様にその様な野心があるとは思えません」
「余には分かるのじゃ。彼奴は噯にも出さぬが、皇国を己れの思うがままに牛耳る腹づもりじゃ」
「そのような•••」あの聡明な叔父が謀叛とは•••、ソウはなお信じられない思いであった。
「よいか、よく聞くのじゃ。彼奴にこの座を渡せば皇国に危機を招くぞ。余の生命が長くない今、彼奴がそなたらに牙を剥くのは必定じゃ。ミゴに気を許してはならん!」興奮したギサは激しく咳き込んだ。
「お父様!」ソウは傍らの卓上にある水差しからグラスに水を注ぐと父へと飲ませた。
落ち着いたギサが続けた。
「そなたが余の跡を継ぐのじゃ。そして皇国を護れ」ギサの目には強い意志があった。
「わたしはその器ではありません。皇位にはジセオが即くのがこれまでの慣いです」ソウの弟ジセオはまだ10歳の少年であった。
この国に成人の概念はないが、武人として一人前と認められるには、漆黒羆を独りで狩る必要があった。
しかしジセオによって、それは未だ果たされていなかった。
ソウは16歳の初冬にスナウトシシを駆り1本の毒矢をもって巨大な漆黒羆を仕留めていたが、これまでの皇国史上、皇位には概ね男子が即いてきた。
「ジセオでは務まらん」
「大叔父様がきっと支えてくださいます」
「セガも年じゃ、子息ラプンテとの確執も激しいものと聞く」
クツラブ公爵スデ・セガはギサ皇帝の叔父にあたり、皇国北洲クツラブを治め枢密院議長を務めていた。
その息子チクモト侯爵スデ・ラプンテは元老院議長を務め、スデ・ミゴ派の急先鋒と目されていた。
「よいか、そなたに任せたぞ」ギサの言葉は有無を言わさぬ響きがあった。
ソウが口を開こうとした時、扉を叩く音がした。
「何じゃ?」ギサが応える。
扉を開けて侍従長キヌタワが入ってきた。
「南洲オリミバ公爵閣下が御目通りを願われております」
「うむ、そうか。ここへ通せ」
「御意」キヌタワは礼をすると扉の外にいる衛兵に合図を送った。
ソウは玉座から離れようとした。
「そなたもここにおれ」ギサの言葉にソウは玉座から一段降りた場所へ佇んだ。
「南洲オリミバ公爵スデ・ミゴ閣下の御成り!」衛兵の声が響くと同時に謁見の間の中央扉が開いた。
スデ・ギサの軀が玉座の中で威圧感を放ち、その眼が爛と輝いたようであった。
ミゴはギサの10歳下の異母弟で、皇国最大の領土南州オリミバを統治する公爵であり、密かに元老院をその権力の内に収め皇帝の地位を狙っていた。
ギサの見つめる扉にミゴが共を引き連れ現れた。
「陛下、ミゴ見参いたした」ミゴは芝居掛かった太い声で不敵な笑みを浮かべていた。
「南州にて捕まえましたる珍しき瑞獣を献上に参りました。数十年振りに現れましたる陸吾、これは吉兆にございます」ミゴは己が手で捕まえたことを示唆するように右の掌を握るような仕草をした。
陸吾とは先天性色素欠乏症の紅虎で幸運を招くものとして珍重されていた。
「その吉兆とやら、余にとってか?其の方にとってか?」ギサの声は鋼の冷たさであった。
ソウはギョッとした様に父スデ・ギサとスデ・ミゴを眺めた。
「余が死ねば、皇国を其の方の思いのままにする所存であろう?それとも余を討ちに参ったか?」ギサの声には挑発と嘲笑が混じっていた。
「これは陛下またお戯れを、このミゴに二心など滅相もないことでございます。ただただ陛下の御身を案じておるまで」ミゴは顔色ひとつ変えず神妙に頭を下げて応えた。
「聞けば其の方、領内に蛮族や面妖な異国の者共を招き入れておるようじゃな」
「それもまた皇国の防衛に資する為にございます」ミゴは動揺することなく泰然としていた。
「よい機会じゃ、其の方には余の存念を申し伝えておく」ギサの口調が厳しいものへ変わった。
「なんなりと」ミゴはギサを一瞥してまた頭を下げた。
「余が意志の全ては、このソウが継ぐものである。心得ておれ!」ギサが王笏で床を激しく一突きした音が謁見の間に響き渡った。
ソウは、頭を下げたままのミゴの顳顬に、朱い筋が数匹の蛭のように蠢いているのを、恐ろしい物でも見るかのように凍りついていた。
つづく