夜の中で記憶を辿ると、過去に戻りたいと少し思う出来事が浮かび上がる。
あれは陽当たりが悪く、暗くて冷たくてオンボロで、よく雨漏りのする、学校で一番古い校舎旧北館でのことだった。
あの日は物憂い秋だったか、もう初冬といってもよい頃だったかもしれない。
中学生だったわたしは、毎日決まったように授業が始まると直ぐに眠っていた。
まともに起きていたのは、嫌々受けていた体育の授業くらいだろうか。
訳もなく毎日が苦痛で堪らず、現実逃避は夢の世界だった。
親の手前登校はするものの、誰と会話することもなく、休み時間はぼんやりと過ごし授業は眠る。
そんな青春とは程遠い堕落した毎日を送っていた。
その日は5時限目の授業終了後、そのまま放課後まで寝過ごしてしまった。
目醒めてもすっきりとせず、なんとも気怠い気分で動くのが億劫だった。
しかし、教室にいるわけにもいかず、のろのろと帰り支度を始めた。
といっても弁当箱以外を出し入れすることのない鞄を手に取るだけだ。
夕刻を迎えた旧北館の廊下は人気もなく物音一つせず、澱んだような空気に満たされ、消された灯りのせいで、より薄汚れて見えた。
染みだらけの天井、ひび割れた床、傷だらけの壁、それら全てが誰かの過去のようだった。
誰もいない廊下を歩き、教師と生徒が自殺したと言われている開かずの美術室と何かが出るので閉鎖されている女子トイレの前を通り、階段に差しかかった時、彼女に気づいた。
踊り場の窓から川に沈む夕陽を眺めているようだった。
同じクラスの彼女は頬が隠れるくらいのショートヘアで、パッチリとした眼と大きな瞳を持ち、群れるのを嫌うかのように、いつも一人で寡黙に過ごしていた。
ただ納得出来ないことには、教師であろうと男子生徒であろうと食って掛かることのある勝気な少女だった。
彼女はわたしに気づくこともなく窓の外を眺めていた。
特に気になった訳でもないが、わたしはその姿に不思議な雰囲気を感じ、その場に佇み彼女を見下ろしていた。
ほんの数秒だったか数分だったかは、もう忘れてしまったが、彼女の姿を斜め後ろの階上からじっと見つめていた。
やがて彼女はわたしに気づいたのか、ゆっくりと振り向いた。
彼女は眼を赤く泣き腫らし、なおも涙を流していた。軀を震わせることもなく。
わたしを認めると彼女は大きな眼を見開き、キッと見据えるように視線を上げた。涙を拭うこともせずに。
なんだか悪いことをしたような気になって、わたしは校舎の反対側の階段を降りるため、回れ右をして廊下を戻った。
翌日の朝、彼女はいつもと変わらず、孤高に席に座っていた。
わたしに注意を払うこともなく、まるで昨日のことは何もなかったかのようだった。
そしていつしかわたしはそのことを忘れ、またいつもの日常に戻り、やがて中学生生活が終わった。
最近何故か夜の中で時々、あの時のことをふと思い出すことがある。
在学中一度も言葉を交わしたことはないけれど、泣いていた彼女に「どうしたの?」と尋ねていれば答えてくれただろうか。
そんなことを考えると少し過去に戻ってみたいような気分になる。
たぶん無視されただろうけど、尋ねていればよかったのかなぁと考えないこともない。
きっと彼女もわたしも若過ぎただけなんだと思うけれど。
その後中学卒業以降、街で彼女を見かけたことは一度もない。