幻想水滸伝
ひとひらの約束
 
 
 
 
 麗らかな午後の昼下がり。
 デュナン城の裏手にある桟橋で、ユリウスはのんびりと釣り糸を垂らしていた。
 少し離れた位置からこちらを見つめている奥様方の顔が、仄かに赤いのは気のせいだろうか。
 ユリウスは不思議そうに肩を竦めたが、また湖に目を戻した。
 そしてふと、注がれる視線の中によく知る気配が混じっていることに気づく。
「そんなところに隠れてないで、出ておいでよ」
 声をかけると、間もなくして忍び装束に身を包んだ女性が姿を現した。
「き、気づいておいででしたか」
「どうしたのカスミ。僕に何か用?」
 隣に跪いたカスミに、やんわりと尋ねる。
 すると彼女が僅かに頬を染めたが、その理由が思い当たるだけに、ユリウスは特に言及することもなかった。
 この先何があっても、彼女の想いに応えてやることはできないのだから。
「これをお返しするよう、カナタ様に仰せつかってきました」
 カスミが懐から一冊の兵法書を取り出す。
 それは先日、ユリウスが新同盟軍の軍主カナタに貸したものだった。
「今日は執務に追われていて、直接お返しすることが適わないから……と」
「そう。わざわざ届けてくれてありがとう」
 兵法書を受け取りながら微かに笑みを浮かべると、カスミも嬉しそうに破顔した。
「…?」
 その時。
 不意に、彼女の肩に薄いピンク色の何かが貼り付いていることに気づき、ユリウスは首を捻る。
「ユ、ユリウス様!?」
 前触れもなく手を伸ばしてきた彼に、カスミが慌てたように声を荒げた。
「―――…花びら?」
 その言葉にハッと我に返ると、カスミは彼の手の中を覗き込んだ。
「……桜、ですね」
「桜?」
「はい。先程ハンゾウ様への報告から戻ったばかりなので、きっとその時に付いたのでしょう」
「へぇ…これがそうなんだ」
 ユリウスが物珍しそうに花片を見つめる。
 その顔が年相応に可愛らしくて、思わずくすりと笑みを零してしまう。
「ユリウス様は、桜を御覧になったことがないのですか?」
「うん。本で読んで名前だけなら少し」
「それでしたら、今度ぜひロッカクの里にお越し下さいませ!今はちょうど満開で、とても綺麗なんですよ」
 名案だとばかりに、カスミが胸の前で手を叩く。
 しかしユリウスは、その提案に困ったように眉を下げた。
「それはできない」
「! 何故ですか?」
「里を襲撃した将軍の息子が、のこのこと姿を現すわけにはいかないだろう?」
「っ!」
 落ち着いた様子で告げられたその科白に、カスミは頭を鈍器で殴られたようだった。
 三年前の解放戦争でロッカクの里を襲撃したのは、赤月帝国五将軍の一人――テオ・マクドール。他ならぬユリウスの父親である。
 ついつい浮かれて、失念してしまっていた。避けきれなかった父子の因縁に、彼が未だ苛まれていることを。
 だが、しかし。
「そんな……っ、確かにユリウス様はテオ将軍の御子息ですが、同時に私たちを窮地から救って下さった恩人です!里の誰が貴方様を追い返すことなどするでしょうか!」
「それでも、心の奥底でよく思っていない人間は必ずいる。ようやく里も落ち着いてきたんだ。今、水を差すべきではない」
「…っ」
 強い口調で淡々と述べる彼は、軍主であった頃の姿を彷彿とさせて。
 カスミはそれ以上、何一つ言葉を紡ぐことができず、消沈したように苦い顔を俯けた。
 すると。
「――――…でも」
 頭上から、先程とは打って変わった優しい声が降りかかる。
 顔を上げると、そこには穏やかなユリウスの横顔があって。
「いつか………戦争の記憶が人々の心から薄らいだ、その時には―――」
 花が綻ぶような微笑が、こちらを振り向く。
「―――必ず行くよ。里の桜が、満開の花を咲かせる頃にね」
「! ……お待ちしています、いつまでも」
 カスミが微笑み返すと同時に、ユリウスの手から一枚の花片が躍り出る。
 それは風に乗ってくるくると回りながら、湖の向こう、遥か遠く彼方へと消えていった。
 
 
 
 
  END