「人殺しっ!!」
 眼鏡の奥で瞳を潤ませながら、彼女は突き刺すように彼を睨みつけた。
 憎悪と悲痛に満ちたその叫びは部屋を大きく振動させ、鼓膜に余韻を残して静かに消えていった。
 
 
 
 
幻想水滸伝
冷箭の声
 
 
 
 
 帝都グレッグミンスターが堕ちたあの夜、忽然と姿を消した若き軍主。
 祝宴の席は一瞬にして凍りつき、軍の人間は誰もが彼の行方を探し、その身を案じた。
 でも、自分は違った。ただ他人事のように右往左往する者たちの顔を眺めていただけ。
 それでも重苦しい暗鬱とした空気はこの上なく居心地が悪くて。それをこの場にもたらした彼への嫌悪感がいっそう増していったのを覚えている。
 赤月帝国がトラン共和国へと生まれ変わって早3年。戦争で廃れた街にも、人々の目にも、ようやく活気が戻り始めている。自分たちが目指した誰もが幸せに生きていける国は、確実に実現への道を歩んでいるのだと思う。
 それでも、『英雄』と呼ばれる彼は戻っては来なかった。
 3年もの間、完全に消息を絶った彼。その安否すらも分からないまま過ぎていった日々。もう彼の姿を見ることは二度とないのだと、誰もが思い始めていたのだ。そう、自分も。

 ――――しかし、彼は現れた。

 幼い軍主に連れられて、この城に。
 自分はそんなこと知る由もなくて。
 いつものように執務室へ入ると、同盟軍正軍師に挨拶に来た彼と視線が合った。
 何の前触れもなく突如としてやって来た再会の時。
 あの頃と寸分も違わないその姿を見た瞬間、自分の中で何かがチリリと燃えた気がした。
 
  どうして貴方がここにいるの。
  先生を死に追いやったのは貴方なのに。
  どうしてあの頃と同じ姿でそこに立っているの。
  先生は戻ってこないのに。
  絶対に許さない、許さない、ゆるさない。
  人殺し、人殺し、人殺し………
 
 
 
 *
 
 
 3年前と同じ呪詛をユリウスに浴びせると、アップルは弾かれたように部屋を飛び出していった。その場にはどこか張り詰めた緊張感だけが漂い、残された三人は各々がまるで違う顔をしている。
「アップルさんがあんなこと言うなんて……び、びっくりした」
「………」
「……アップルにはあとで私から話をしておきましょう。ご無礼をお許し下さい、マクドール殿」
 彼女が立ち去った方向を溜息混じりに見やりながら、シュウは小さく謝罪した。
「いえ、彼女の怒りはもっともですから」
 彼に視線をやると、どこか憂いを帯びた表情で瞑目する姿が目に入った。
 刹那、ユリウス・マクドールという人間の本質が垣間見えたような気がする。
「あなたという人は………」
「?」
「……いえ、何でもありません。―――カナタ殿」
「うぁ!?は、はいっ!」
 今まで半ば放心状態だった軍主が、名を呼ばれて文字通り飛び上がる。
「今日の公務はもう結構です。マクドール殿に城内を案内して差し上げてはどうですか?」
「え、いいんですか!?わーい、さっそく行きましょうマクドールさん!」
「うん、お願いするよ」
 思いがけず本日分の仕事が免除されたカナタは、うきうきと肩を弾ませて歩き出す。
 その後に続こうとして、ユリウスは落ち着いた動作で振り返った。
「それでは軍師殿、失礼します」
 にっこり、と口元に笑みを浮かべたが、その目は少しも笑ってはいなかった。
 得体の知れない威圧感が、シュウを貫く。
 彼はまだこちらを信用してはいない。力を貸すに値する人物か、窺っているのだ。
 ―――これが『トランの英雄』。絶望的な戦況から解放軍を勝利に導いた稀代の名軍主。
 シュウは身震いさえする己を戒めるように、右手を強く握り締めた。
 
 

 
 
 
 その日の夜。
 
  コンコン…
 
 シュウの部屋に規則正しいノックの音が響く。
 扉の前に立っているのは、アップルだ。
「アップルだな。入れ」
「……用とは何でしょうか、シュウ兄さん」
「まぁ座れ。たまには同じ軍門出の弟子同士、茶を飲んで語ってみるのもいいだろう」
「………」
 勧められるままアップルが手近な椅子に座ると、シュウは湯気の立つカップを彼女の前に置いた。
 温かいカップを両手で包み込むと、白い湯気が眼鏡をほんのり曇らせた。
「――――…マクドール殿のことだが」
「―ッ」
 沈黙を破り、シュウが彼の人の名を紡ぐ。部屋に呼ばれた時から予想はしていたものの、やはり体が強張った。
「お前はどう思う?」
「………」
 できることなら避けたかった人物の話題に、アップルは厳しい顔でカップを見つめた。
「……彼は解放軍の軍主だった人間です。そしてこの軍には、解放軍に参加していた人たちも大勢います。彼らがカナタよりも彼の方を支持する危険があるのではないかと、少し不安です」
「それは俺も懸念した。だが、彼自身が軍主のカナタ殿や俺たちの指示には基本的に従うと言っている。それに、万一カナタ殿ではなくマクドール殿を持ち上げる勢力が生まれた場合には、即刻この城から立ち去るとも明言した」
「でもっ…!」
「何だ?」
 ガタン、と勢いよく立ち上がったアップルに、シュウが努めて冷静な視線を向ける。
「彼は………ずっと一緒に戦ってきたマッシュ先生の遺体を目の前にしても、涙一つ流さなかったのよ?その挙げ句、帝都が堕ちた夜に黙って逃げ出した。そんな非情で無責任な人間、この城には要らないわ」
「………」
 アップルがギリッと音を立てて両の手を握った。
 シュウはそれを見やると、茶を一口啜って喉を潤してから静かに口を開いた。
「マクドール殿はこの3年間、声を失っていたそうだ」
「!!え……」
 
 声を、失っていた?
 誰が?
 ―――彼が?
 
「解放戦争が終結し、帝都から姿を消した翌朝からな。カナタ殿や昔なじみの働きで、先日何とか喋れるようになったばかりらしい」
「そんな……」
 俄には信じられなかった。
 シュウが嘘を吐くとは思えない。しかし彼がそのような状態になっていたという想像もつかない。
 だって彼は泣かなかった。嘆かなかった。顔色一つ変えなかった。師の亡骸に縋って泣き喚く自分の姿を、ただ黙って見ていただけ。
 自分の中で今まで頑なに動かなかった何かが、壊れていく音がした。
「マッシュ先生の死に苦しんでいたのは、お前だけではないのではないか?彼もまた、この3年間苦しみ続けてきたんだろう。文字通り、悲痛な叫びも自責の呪詛も発せぬほどにな」
「…………でも」
「ん?」
「でもっ!あの人のせいでマッシュ先生は戦争に参加することになったのよ!?彼さえ現れなければ先生は……!!」
「『誰かのせいで彼の人が死んだ』などと言っているようでは、軍師として失格だな」
「なっ!?」
「考えてみろ。俺たち軍師の練った策で、いったいどれだけの人間が死んでいると思う」
「あ……」
「人殺しという点では、軍主も軍師も、何も変わりはしない。……いや、軍主を隠れ蓑にして殺戮の策を創り出す軍師の方が、より質が悪いのかもしれんな」
「人、殺し……」
 自嘲気味に笑ったシュウの言葉に、アップルが消沈したように力なく椅子に腰かける。
「マッシュ先生は先の戦争において、敵軍の城に人質として潜り込んで機会を窺ったり、自ら戦場の第一線に連日赴いたりと、随分な無茶をされたと聞く」
「は、はい」
「そんなことができたのは、ユリウス・マクドールという一人の人間を心から信頼し、軍主としての彼の力量を信じていた何よりの証だろう」
「………」
 シュウが空になった自らのカップに茶を注ぎ入れる。熱い湯気が一筋、細く立ち昇った。
「俺は何も彼の弁護をしているわけではない。だが、わかっただろう。マクドール殿を否定することは、すなわちその軍師であったマッシュ先生を愚弄することにも等しい」
「そんな! 私は…っ!」
「アップル。真に軍師として一人前になるつもりなら、本質を見失うな」
「本質?」
「そうだ。何事も表象だけに目をやっていては、見えるものも見えなくなる」
「………私には本質が見えていないということですか?」
「さぁな。それは自身で考えなければまるで意味のないことだ。違うか?」
 そう問い返したのを最後に、シュウは何も話さなくなってしまった。
 薄暗いランプの灯が、煌々と揺らめいている。
 アップルはしばらくその灯りをぼうっと眺めていたが、やがてカップに入った熱い茶を一気に飲み干すと、釈然としない胸の痞えと共に部屋を後にしたのだった。
 
 

 
 
 
 数日後、とある日の朝。
 レストランへと続く長い廊下を、赤い服を着た二人の少年が歩いている。言わずと知れた軍主カナタと、トランの英雄ユリウスだ。
「マクドールさん、昨夜は城に泊まったんですね」
「うん。本当は帰ろうと思ったんだけど、運悪くビクトールに捕まっちゃって。一晩中、酒の相手をさせられたよ」
「え!大丈夫だったんですか!?」
「何が?」
「だってビクトールさんって、ものっすごい酒豪じゃないですか!相手したら最後、大変なことになりません…?」
 口元に手をやり顔を青くするカナタに、ユリウスが小さく笑う。
「確かに、飲むだけ飲んだらあとは酔い潰れて寝てしまうからね。部屋まで運ぶのが大変だったよ」
「は?」
「?」
 カナタが惚けた声を出すと、ユリウスも首を傾ける。どうやら互いの言う「大変なこと」の意味が食い違っているらしい。
「…………もしかしてマクドールさんって、めちゃくちゃお酒強かったりします?」
「どうだろう?でもビクトールたちと飲んだ時、最後まで起きているのはいつも僕かな」
「………」
 その言葉に、ぐらりと眩暈がする。まさか軍内一の酒豪で知られるビクトールを酔い潰れさせる人間がいたとは。
 今後、彼と酒の席を共にすることだけは避けようと、カナタは秘かに心に決めた。
「―――…あ」
 その時だった。
 ユリウスの新たな英雄譚に驚くカナタの視界に、ふと、向こうから歩いてくる人影が映った。
 ―――アップルだ。
「おはようございます、アップルさん!」
 手を振り上げて元気よく挨拶すると、こちらに気づいた彼女も同じように手を掲げた。
 だが、カナタの隣に立つ人物に気づくと同時に顔を強張らせ、慌てたように手を下ろす。
「……………おはよう、カナタ」
 そしてすれ違いざま小さく呟いたかと思えば、アップルは顔を上げることなく足早に立ち去ってしまった。
 その後ろ姿を見送ると、カナタはユリウスにそっと気まずそうな視線を向けた。
 すると、それに気づいた彼がさして気にした様子もなく微笑む。
「気にしないで。僕とアップルは昔からこうだから」
 そう言って彼は笑ったけれど。
 その科白に、カナタはひどく寂しさを覚えた。
 
 

 
 
 
「はぁ~……」
「おいおい、軍主サマが辛気くさい顔してどうしたよ?」
 昔の仲間と再会したばかりであちこち引く手数多のユリウスと別れ、カナタが一人レストランのテラスで大きな溜息を吐いた時だった。
 明るい声色でバシッと背中を叩いてきたのは、茶金色の髪を陽光に輝かせたシーナだ。
「……ねぇシーナさん。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「珍しいな。何だよ?」
 シーナもアップルと同様、3年前にユリウス率いる解放軍に参加したメンバーの一人だ。
 彼なら何か知っているかもしれない。カナタはそう思った。
「マクドールさんとアップルさんって、前からああなんですか?」
「ああって?」
「アップルさんが一方的にマクドールさんを嫌ってるっていうか……」
「あ~……まぁあれはな~……―――アイツは呆れるくらい不器用だから」
「? 『アイツ』って、アップルさんのことですか?」
「…あーうん、まぁな」
 煮え切らない様子で耳の後ろを掻くシーナだったが、カナタは特に気には留めず、再度息を吐いた。
「ボク、できれば二人には仲良くしてもらいたいんです。せっかく3年ぶりに出会えた仲間なんだから。無事に会えてよかったねって喜び合えないなんて、そんなの寂しすぎます……」
 カナタがまるで自分のことのように悲しそうに目を伏せると、シーナがぽん、と彼の頭に手を置いた。
「まったくその通りだよな。――…っとにアイツらは世話が焼けるよっ」
「……シーナさん?」
 腰かけていたテーブルから勢いをつけて飛び降りたシーナを、カナタが不思議そうに見上げる。
「うっし。ここは俺たちが一肌脱ぎますか!」
 シーナは振り返ると、悪戯を思い浮かべた子供のように白い歯を見せて笑ったのだった。
 
 

 
 
 
(――――……『英傑大全』なんて、どこにあるのかしら?)
 穏やかな午後の昼下がり。
 城内にある資料室に、アップルは軍主所望の文献を探しに来ていた。
 『シュウさんにもっと本を読んで勉強するようにって言われたんですけど、今日の公務がまだ残っててここから離れられないんです。なのでアップルさん!ボクの代わりにこの本を探してきてくれませんか?』
 妙にやる気を見せる彼の心意気を買って使いを引き受けたものの、肝心の文献に心当たりがない。
 図書館ほど整理の行き届いていないこの部屋は、入り口から奥までドミノ倒しのように本棚が並べられ、その中には古い蔵書や文献が所狭しと収められていた。高い本棚と狭い通路によって視界は狭まり、舞い散る埃に息苦しくなる。できれば早く退散したいところだが、この散らかり放題の本の山から目的のものを見つけ出すのは、とても困難なことに思えた。
(………片っ端から探していくしかないわね)
 これは時間がかかりそうだと、無意識に息を吐き出した時だった。
「―――シーナ?」
「―ッ!?」
 突如として現れた人影に、これでもかというほど心臓が跳ね上がる。
 声の主は、今最もアップルが会いたくない人物――ユリウス・マクドールだった。
 その予想外の登場に動揺を隠せず、アップルは思わず彼の顔を凝視してしまったが、それはユリウスの方も同じようで、彼にしては珍しく瞠目したまま固まっている。
「………こんなところで何をしているの?」
 やっとの思いで絞り出した声は、思ったより凄みのあるものになった。
 その声にようやくユリウスもいつもの調子を取り戻したのか、落ち着いた様子で棚から一冊適当な本を取り出し、パラパラとページを捲り始めた。
「シーナに蔵書整理の手伝いを頼まれたんだけど、頼んだ本人がまだ来てなくて」
 ――――やられた。
 これはカナタとシーナの策略に違いない。証拠はなかったが、アップルはそう確信した。
 彼らは自分とユリウスを二人きりにして、いったい何をさせようというのだろう。アップルはここにはいない二人に無性に腹が立って、眉間に深い皺を寄せた。
 一方、カナタたちの策略だとは知る由もないユリウスは、本を広げたまま静かに口を開いた。
「アップルこそ、何故ここへ?」
「貴方には関係ないわ」
 本当に、よくもこれだけ冷たい声が出せるものだと自分でも感心してしまう。
 顔を逸らして素気なく言い放ったアップルに、ユリウスは文字を追う目をそのままに、淡々とした笑みを口元に浮かべる。
「そうだね。ごめん」
 決して揺るがない冷静な態度。
 相手の激昂を流水の如くいとも簡単に受け流してしまう静謐さ。
 それはあの頃とまるで変わらない。
 何一つ、変わってはいない。
「――――――………どうして?」
「え?」
「…っ、どうして怒らないのよ!? 私は貴方にこれだけ理不尽な態度を取ってるのに!どうしてそうやって笑っていられるの!?もっと…もっと怒ればいいじゃないっ!」
「アップル?落ち着いて…?」
 堰を切ったように叫ぶアップルの両肩に、ユリウスが両手を乗せて優しく宥めようとする。それでも、一度溢れ出してしまったものは止まらない。
「貴方は昔からそう!いつだって笑って、飄々として!」
「アップル」
「これじゃ一人で怒ってるこっちが馬鹿みたいじゃ…――!!?」
「ッ!?危ないッ!!」
 
  バサバサバサバサッッ!!!!
 
 刹那。
 何かがふわりと自分に覆い被さったと同時に、沢山の音と白い埃が舞い上がり、部屋が大きく揺れたように感じた。

「………ぅ……」
 いったい何が起きたのだろう。
 アップルはずれた眼鏡をかけ直し、堅く瞑っていた目をおそるおそる開いた。
 すると辺りには、数え切れないほどの本が彼女の周りに無造作に散らばっていた。
 ―――そして。
 倒れてきた大きな本棚とアップルの間に割り込む形で、ユリウスが折り畳んだ右腕を盾にして、空になった棚を押さえているのが目に入った。
 あの時アップルを包み込んだ温もりは、彼のものだったのだ。
 その事実に半ば放心していると、アップルはすぐにハッとなって再度自分の周囲を見回した。
 床に落ちているのは千ページを超える分厚いものばかり。一冊でもその重さは半端なものではない。彼女の代わりにそれを滝のように浴びてしまったユリウスへの衝撃は、計り知れないだろう。
「あの……だ、大丈夫…?」
 アップルがどこか震える声で彼を見上げる。
「…ん、大丈夫だよ。ちょっと驚いたけどね」
 そう言うと、ユリウスは立ち上がりながら押さえていた本棚を元の位置に戻した。そして至極真面目な顔で振り返る。
「それより、アップルは大丈夫だった?どこも怪我はない?」
「え、えぇ…」
「そう。よかった」
 思わず何度も頷いて答えると、ユリウスが安心したように表情を和らげた。
 彼の方が数倍も強い衝撃を受けたはずなのに。自分は散々彼に罵倒を浴びせ続けてきたのに。それでも彼は、自分の身を案じるのか。自分の無事に安堵してくれるのか。
 アップルは、何だか無性に泣きたくなった。
 一つだけある小さな窓から、陽光が薄暗い部屋を明るく照らす。
 それはとても綺麗で。目を瞑りたくなるほど眩しくて。あの頃の、誰かの、遠い背中を思い出した。
「……………私、ずっと謝りたかったの」
「?」
 ぽつりと呟かれた言葉に、ユリウスが散乱した本を拾う手を止めた。
「あの頃の私はまだまだ子供で、自分のことしか考えていなかった。くだらない自分の感情と価値観だけが正義だと思い込んで、それをただ貴方にぶつけることしかできなかった。貴方だって、辛かったはずなのに。―――…そう、辛くないはずないのよね。マッシュ先生は、貴方にとっても大切な軍師で……理解者だったんだもの」
「………」
 ユリウスが僅かに目を細める。
 アップルは静かに話を続けた。
「なのに、貴方はいつも私を許すの。どんな理不尽なことを言っても怒らない。それが何だかすごく悔しくて、腹立たしかった。リーダーなんだから、もっと偉そうに叱ればいいのにって。自分から悪者になろうとする貴方がどうしても許せなくて………それで………」
 
『人殺し』
 非道い言葉を吐いた。
 彼も心に傷を負っているということを、知ろうともせずに。
 自分は何と傲慢で最低な人間だったのだろう。
 彼の傷を抉るようなことを、平気で言葉にしていたなんて。
 
「ごめんなさい。今更こんなこと言っても、許してもらえないことは分かってるわ。憎まれても仕方がないと思ってる。でもどうしても謝りたかったの、貴方に」
 アップルは立ち上がり、ユリウスを真正面から見つめた。
 その吸い込まれそうな漆黒の瞳から、思わず目を逸らそうとする自分を必死に戒めながら。
「―――……今まで、本当にごめんなさい」
 そっと目を伏せ、頭を下げる。
 幼かった自分も、過去の過ちも、子午線の彼方へ消し去ることはできないけれど。
 今の自分には、こうして懺悔の言葉を繰り返すことしかできないけれど。
 それでもできる限りのことをしたい。
 もう二度と、後悔だけはしたくないから。
 
  ごめんなさい。
  ごめんなさい。
 
 壊れた絡繰り人形のように、何度も何度も頭の中で反芻する。

 やがて。
 アップルの懺悔に黙って耳を傾けていたユリウスが口を開いた。
「許すも許さないも、僕には君を責めることすら考えつかないよ」
「―!」
 顔を上げると、そこにはアップルが今まで見たことのない、穏和で優しい微笑みが広がっていた。
「人は大切な人を亡くした時、誰かのせいにしないではいられない生き物だと思うんだ」
「え…」
「マッシュが死んだ時、君が僕に憎しみをぶつけることで自分を責めずに済むのなら………この先一人でも生きていってくれるなら………それでいいって思ったんだよ。憎しみは時に、生きる糧にもなるから」
「――っ」

 あぁどうして。どうして気づかなかったのだろう。
 彼がこんなにも優しく、強い人だということに。
 そしてその強さが、いつ砕けるかもわからない紙一重の危うさを持っているということに。
 シュウに言われた通り、自分は上辺だけしか見えていなかった。いや、それしか見ようとしていなかった。
 声を失ってしまうほど、あの戦争で傷ついたのは誰よりもこの人だったはずなのに。
 いつだって他人のことばかり最優先で、自身のことなど顧みもしない。
 自分はそんな彼に腹を立てていたのだ。何故もっと自身を大切にしないのだろうかと。
 自覚したくなかっただけで、本当はずっと前から認めていた。
 彼は師が心から信頼した、唯一無二の軍主であるということを。

「今なら分かる。―――あなたは最高のリーダーだったわ」
「……それは最高の軍師ありき、だよ」
 そうして二人は、初めて互いの顔を見て笑い合った。
 冬の氷が溶けて消えるように。春告げの風が頬を撫でるように。
 彼らの心にもはや暗雲はなく、安らかな光だけが静かに広がっていった。
 
 

 
 
 
 翌朝。
 昨夜もトランに帰らず城に留まったユリウスを、カナタが朝食に誘った。
 シーナと企てた計画は上手くいったのか、はたまた失敗に終わったのか。それはとても気になるところだったが、まさかユリウス本人に聞くわけにもいかない。
 それに、彼の様子で昨日と変わったところなど一つもないのだ。
 やはり、駄目だったのだろうか。
 カナタは沈みそうになる気分を無理矢理持ち上げて、隣を歩く彼に努めて明るい声で話しかけた。
「あ、あの!」
「何だい?」
「昨夜も酒場にいらしたんですよね。誰と一緒だったんですか?」
「あぁ、シーナだよ」
「ふぇっ!」
 共謀者の名が出てきたことに驚き、カナタが思わず素っ頓狂な声を上げた。
「どうしたの?」
「いいい、いえっ! 何でもありません! ………それで、シーナさんとは何を?」
「あぁうん。人に頼んでおいてサボったからね。ちょっとお仕置きしてやろうと思って」
「へ?」
 何やら彼には似つかわしくない物騒な単語が聞こえたような気がしたが、ユリウスがいつもと変わらず微笑むので、カナタは気のせいだと自分に言い聞かせた。
「―――…あ」
 その時だった。
 昨日と同じような光景がカナタの視界に映った。
 やましいことはないはずなのに、どきりと心臓が跳ね、嫌な汗が吹き出てくる。
 ―――そう。廊下の向こうから、アップルが歩いてきたのだ。
 また、昨日の繰り返しになるのだろうか。
 また、彼は寂しげな顔をするのだろうか。
 また、二人は笑い合えないのだろうか。
 アップルがこちらに気づく。近づいてくる。
 どくん、どくんという心臓の音が、煩いくらい自分の中で響き渡る。
 カナタは俯き、無意識の内に眉根を寄せてぎゅっと目を瞑った。
 ―――だから。

「おはようカナタ、ユリウス」

 降りかかった声が意味するものを、もう少しで見落としてしまうところだった。
「! …あ、お、おはようございますっ!」
 勢いよく顔を上げ、慌てて言葉を返す。
 そこには昨日とは打って変わり、どこか凛としたアップルの姿。
 ―――そして。
「おはよう」
 彼の口から紡がれた、優しい響き。
 二人の間に流れる穏やかな風。

 カナタは大きな目をゆっくり瞬かせると、やがて充たされたように微笑んだのだった。
 
 
 
  END