こちらは 「アジサイの話・3」 であります。 1 は ↓
http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10593295874.html
【 学名は一気に “御破算” になることがある 】
〓ところが、ここに思わぬ伏兵がひそんでいました。
Hydrangea L. (1753)
※ L. = Linné (リンネ)
〓この記述は、リンネが 1753年に Hydrangea 「アジサイ属」 という属を、すでに立てていた、ということを意味します。これは、1739年に、オランダのグロノヴィウスが北米に自生するアジサイの一種、「アメリカノリノキ」 に付けたラテン語名ですね。
〓 1753年に、リンネがグロノヴィウスの付けていた名前を採用して、“アジサイ属” の 「属名」 に当てていたんです。
〓学名には
先取権 (せんしゅけん) の原則
というものがあり、先に発表した学名が 「有効な学名」 であり、それと知らずにあとから発表された学名は 「異名/シノニム」 synnonym という扱いになります。
〓つまり、こういうことです。
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1784年に 「ホンアジサイ」 を Viburnum macrophyllum と分類したテュンベリーは、そもそも、この植物を所属させる “属” を誤っていたのだけれども、たとえ、正しく分類していたとしても、
すでに、31年前にリンネが 「アジサイ属」 Hydrangea を立てていたので、
どんな属名を考案していたところで、それは無効であり、 Hydrangea の異名にしかならなかった
のですネ。ところが、リンネは Hydrangea “アジサイ属” を立てていただけで、「ホンアジサイ」 を分類していたわけではないので、
種小名 (シュショウメイ) の macrophyllum
は 「有効」 になります。つまり、 macrophyllum の部分のみ “イキ” なんです。
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〓いっぽう、ラマルクの学名はこうなります。
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1789年に、正体不明の 「アジサイ」 を Hortensia opuloides と分類したラマルクの場合、
属名 Hortensia は、36年前にリンネが Hydrangea を立てているので無効
種小名 opuloides は、5年前にテュンベリーが macrophyllum を立てているので無効
なんです。つまり、 Hortensia opuloides は、実は、発表された時点からマルッキリ無効だったのです。
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〓 1788年、英国の博物学者であるジョゼフ・バンクス卿 Sir Joseph Banks が、中国産とされる (もとは日本産と思われる) 「テマリ咲きのアジサイ」 の株をキュー植物園 Kew Gardens にもたらしました。
〓ジョゼフ・バンクス卿は、フランスのブーガンヴィルの向こうを張った、英国のジェームズ・クックの第1回航海 (1768~1771) に博物学者・植物学者として参加していました。そのときは中国に寄ってはいません。
〓とはいえ、当時の英国では、1750年ごろに 「紅茶」 が国民的な飲み物となっており、茶葉の対中国貿易がトホウもない額にのぼっていました。
〓茶葉貿易の初期においては、英国は銀によって支払いを済ませていましたが、英国の厖大な茶葉消費は、英国の銀を飲み尽くしてしまったのです。その結果、生まれたのが、
茶葉の代金を、インドで栽培したアヘンで支払うというヤクザのような商売
でした。のちに、これに抗議する中国とのあいだで 「アヘン戦争」 が起こります。
〓アヘンによる茶葉貿易は、1781年からウナギ登りに増加してゆきました。ジョゼフ・バンクス卿のアジサイは、そんななか、誰かの手で中国から持ち帰られたものでしょう。
〓この株を挿し木で増やしたクローンは、今でも、英国の温暖な地域で見ることができます。
〓ジョゼフ・バンクス卿がキュー植物園にもたらしたアジサイは、1790年、英国の植物学者、ジェームズ・エドワード・スミス James Edward Smith によって次のように分類されました。
Hydrangea hortensis Sm. (1790)
[ ヒュドラン ' ゲーア ホル ' テンスィス ]
「庭園の小さな水壺」
※ Sm. = James Edward Smith
〓スミスは、ジョゼフ・バンクス卿のもたらしたアジサイを、正しく Hydrangea “アジサイ属” に分類していました。これは、ラマルクが誤った分類を行った、わずかに翌年のことです。
〓実は、日本原産の 「アジサイ」 が Hydrangea という正しい属に分類されたのは、これが初めてのことでした。
〓しかし、そのスミスも、この種 (シュ) が、すでに、テュンベリーによって Viburnum macrophyllum 「ウィーブルヌム・マクロピュッルム」、ラマルクによって Hortensia opuloides 「ホルテンシア・オプロイーデース」 と分類された植物と 「同一のもの」 である、とはわからなかったのでしょう。
〓すでに申し上げたとおり、まだ、人類の誰ひとりとして気づいていませんでしたが、先取権によって、唯一残る 「種小名」 (シュショウメイ) は、テュンベリーの名付けた macrophyllus, -a, -um に運命づけられていました。
〓スミスの学名は、後世、属名も種小名も残らないのです。学名というきわめて合理的に見える方式に内在する、ニンゲンのドラマというのが、こういうあたりに見られるのです。そして、こうしたドラマは、実は、
ひじょうにたくさんの学名の、たった2語の裏に隠れている
のですネ。
〓 hortensis [ ホル ' テンスィス ] というのは、古典ラテン語で hortensius [ ホル ' テンスィウス ] と同義の形容詞で、「庭園の」 という意味。派生の順序から言うと、以下のとおり。
hort- ← hortus [ ' ホルトゥス ] 「庭、庭園」
+
-ensis 「~の土地の、~の土地に住む」 という意の形容詞をつくる接尾辞
↓
hortensis [ ホル ' テンスィス ] 「庭の、庭園の」
↓
hortens- ← hortensis 「庭の、庭園の」
+
-ius 「~に関する」 という意の形容詞をつくる接尾辞
↓
hortensius [ ホル ' テンスィウス ] 「庭の、庭園の」
〓ただ、 -ius に終わる形容詞が、通例の -ius, -ia, -ium という性による変化をするのに対し、 -is に終わる形容詞は、
-is 男性形・女性形
-e 中性形
という語尾をとります。ですから、 Hydrangea が女性名詞であっても、それを修飾する 「種小名」 は hortensis なんですね。このタイプの形容詞の女性形に -ia という語尾はあらわれません。
〓このジョゼフ・バンクス卿のもたらしたアジサイにつけられたのが4つ目の名前で、学名としては3つ目です。
【 シーボルト登場 】
〓ハナシは19世紀に進みます。
〓 1829年になると、みなさんおなじみのシーボルトが、日本で収集した 「ホンアジサイ」、「ガクアジサイ」 など、多種のアジサイを含む標本の分類を始めました。
〓シーボルトも、テュンベリー同様、出島に滞在しているあいだに多数の日本の動植物の標本を集めていたのでした。その期間は 1823年から、国外追放になる 1828年までの長きにわたりました。
〓シーボルトは、自分が採取した標本が、テュンベリーの採取した 「ホンアジサイ」や、ヨーロッパで栽培されている 「セイヨウアジサイ」 と同じ種 (シュ) である、とは思わなかったんでしょう。
〓シーボルトの付けた学名は以下のとおりです。
【 ガクアジサイ 】
Hydrangea azisai Siebold et Zucc. (1829)
[ ヒュドラン ' ゲーア ア ' ズィサイ ]
※ Zucc. = Zuccarini
【 ホンアジサイ 】
Hydrangea otaksa Siebold et Zucc. (1839)
[ ヒュドラン ' ゲーア オ ' タクサ ]
※シーボルトの 『日本植物誌』 “Flora Japonica” は、多数の分冊として、
1835年から 1870年までの35年をかけて刊行されたため、発表年がこのようになっている。
しかも、シーボルトの歿年は 1866年であった。
シーボルトの 『日本植物誌』 に掲載された Hydrangea otaksa の図。
〓つまり、シーボルトは 「ホンアジサイ」 を分類した4人目の学者、ということになります。そのうえ、「ホンアジサイ」 は、現在では 「ガクアジサイ」 の一品種とされており、「種」 (シュ) としては同一のものです。
〓つまり、シーボルトは、日本原産の 「アジサイ」 に5つ目、6つ目の名前を付け、学名としては、4つ目、5つ目の名を付けたのでした。
〓以上のことは、ひじょうにややこしいので、チャートにしてみましょ。
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【 登場人物 】
ガクアジサイ (日本原産の野生種)
↓
ホンアジサイ (日本国内で園芸種として流通していたテマリ咲きの亜種)
↓
セイヨウアジサイ (ホンアジサイがヨーロッパで品種改良されたもの)
アメリカノリノキ (北米原産のアジサイの仲間)
【 起こったできごと 】
1739年 オランダのグロノヴィウスが北米原産のアメリカノリノキをラテン語で Hydrangea と呼ぶ
1753年 リンネがグロノヴィウスの Hydrangea を引用し、「アジサイ属」 の名前に当てる。
1771 or 1773年 フランスのコメルソンが出自不明のアジサイをフランス語で Hortense と呼ぶ
1775~1776年 テュンベリーが出島で植物標本を収集
1784年 テュンベリーが日本のホンアジサイを Viburnum macrophyllum と分類する。
1788年 英国のジョゼフ・バンクス卿がキュー植物園に、中国から持ち帰ったというテマリ咲きのアジサイをもたらす。
1789年 フランスのラマルクが、コメルソンが Hortense と呼んだアジサイを Hortensia opuloides と分類する
1790年 英国のジェームズ・エドワード・スミスが、ジョゼフ・バンクス卿のアジサイを Hydrangea hortensis と分類する。
1823~28年 シーボルトが出島で動植物の標本を収集
1829年 シーボルトがガクアジサイを Hydrangea azisai と分類する。
1830年 フランスのスランジュが Hortensia, Hydrangea という2つの属を Hydrangea に統一する。
1839年 シーボルトがホンアジサイを Hydrangea otaksa と分類する。
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〓で、そのときがやって来るんですネ。
1830年、フランスの植物学者 ニコラ・シャルル・スランジュ Nicolas Charles Seringe が、
Hortensia という属、 Hydrangea という属を、同一のものと判断して属の統合を行った
のですよ。「アジサイ」 の大改革です。
〓同一の種 (シュ) に対して、複数の学名が存在することが判明した場合、どれが有効で、どれが無効かは、すでに申し上げた 「先取権」 に基づいて決められます。
〓すなわち、1日でも早く発表された名前が有効なんす。よって、
属名として、ラマルクの Hortensia は無効となり、リンネの Hydrangea が残った
のです。
〓また、テュンベリーが 「ホンアジサイ」 を誤ってガマズミ属に分類した Viburnum macrophyllum は、スランジュによってアジサイ属 Hydrangea に移されました。よって、属名は Viburnum から Hydrangea にスゲ替えられましたが、すでに申し上げたとおり、
「ホンアジサイ」 の分類はテュンベリーがいちばん早いので macrophylla という種小名は有効
なのです。なので、学名は、こうなります。
Viburnum macrophyllum Thunb. 「ウィーブルヌム・マクロピュッルム」
↓
Hydrangea macrophylla (Thunb.) Ser. 「ヒュドランゲーア・マクロピュッラ」
〓( ) の中に収められるのは、属を移動する前の命名者の名前です。つまり、( ) の中の人物は 「種小名の命名にしか関与していない」 ということになります。 Thunb. は Thunberg “テュンベリー” の略。
〓そのあとの、( ) に入っていない命名者 Ser. (= Seringe スランジュ) は、この種 (シュ) の帰属を、他の属からこの属に変更した、という意味です。この新しい学名表記からでは、もとの属がナンであったかはわかりません。
macrophyllus, -a, -um 「大きな葉を持つ」
というのは形容詞なので、修飾する属名が Viburnum “ガマズミ” という中性名詞から、 Hydrangea “アジサイ” という女性名詞に変わったので、語尾も -um から -a に変えます。種小名は有効なものをそのまま継承する、と言っても、学名はあくまで2語から成るラテン語の句なので、文法的な変化は蒙 (こうむ) ります。
〓シーボルトが分類した日本原産の 「ガクアジサイ」 Hydrangea azisai は、このときは、とりあえず、“アジサイ属” Hydrangea に収まっていました。
〓しかし、1世紀ほどのちの 1923年に、英国の植物収集家 アーネスト・ヘンリー・ウィルソン Ernest Henry Wilson によって、「ガクアジサイ」 は 「ホンアジサイ」 の変種である、という見方が示されました。
〓すると、シーボルトが名付けた azisai という種小名は無効になり、「ホンアジサイ」 と同じ Hydrangea macrophylla という学名のもとに移動させられます。
〓すなわち、
Hydrangea azisai Siebold et Zucc.
↓
Hydrangea macrophylla var. normalis E.H.Wilson
[ ヒュドラン ' ゲーア マクロ ' ぴュッら ワ ' リエタース ノル ' マーりス ]
「アジサイの規範的変種」
ということですね。変種名の normalis 「ノルマーリス」 という形容詞は norma [ ' ノルマ ] 「定規、規範、基本となるもの」 という名詞から派生した形容詞で、「ホンアジサイ」 のもととなったのは 「ガクアジサイ」 である、という意味合いがこめられているようです。これによって、シーボルトの学名は消えてしまいましたネ。
〓いっぽう、ある種に 「変種」 が設けられた場合、
もとの学名で呼ばれていた種は、自動的に、もう1つの変種になる
のです。もとの種は、
Hydrangea macrophylla (Thunb.) Ser. 「ホンアジサイ」
ですよね。自動的に変種に成る場合、「種小名」 がくりかえされます。つまり、ウィルソンが 「ガクアジサイ」 を
Hydrangea macrophylla var. normalis 「ガクアジサイ」
と呼んだ瞬間に、
Hydrangea macrophylla 「ホンアジサイ」
↓
Hydrangea macrophylla var. macrophylla
となるのです。自動的に生成される変種名ですから、命名者はいませんネ。
〓どうですか~。みなさん、ついて来てますか~。ハナシはもっとややこしくなるんすよ~
〓1956年、日本の植物学者、原寛 (はら ひろし) 氏が、「ガクアジサイ」 は “変種” ではなく、“品種” forma [ ' フォルマ ] だという見方を示しました。
〓これは、必ずしも、人工的に生み出された “品種” というわけではありません。“変種” よりも下位の分類で、「個体にささいな変異があらわれるもの」 を指します。
〓人工的につくられた品種は “園芸品種” と言い、少し前までは cultivar (略 cv.) [ ' クるティワル ] で表記していました。現在では、学名のあとに ʻ ʼ (シングルクォーツ) で囲って示します。
〓この “変種” → “品種” の変更によって、またぞろ、「ガクアジサイ」 と 「ホンアジサイ」 の学名の表記が変わります。
【 ガクアジサイ 】
Hydrangea azisai
↓
Hydrangea macrophylla var. normalis E.H.Wilson
↓
Hydrangea macrophylla f. normalis (E.H.Wilson) H.Hara 「ガクアジサイ」
[ ~ ' フォルマ ノル ' マーりス ]
【 ホンアジサイ 】
Hydrangea macrophylla
↓
Hydrangea macrophylla var. macrophylla
↓
Hydrangea macrophylla f. macrophylla
【 シーボルトは、なぜ、“お滝さん” を “オタクサ” と書いたのか 】
〓シーボルトは、出島で楠本滝 (くすもと たき) を妻としていました。これがどういう状況なのか、見るヒトそれぞれに思い入れが異なり、ややこしい。
〓まず、楠本滝は “其扇” (そのぎ) の名で丸山遊郭に出ていた遊女である、という説があります。そのいっぽうで、滝は立派な商家の娘であり、出島に出入りするために、「遊女」 の身分を借りていた、という説もあります。
〓出島の入口には 「制札」 (せいさつ=禁止事項などを書いた立て札) があり、
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禁制 出島町
一、傾城之外女入事 (ひとつ、けいせいのほか、おんな、いること)
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とあったそうです。
〓シーボルトは、1823年11月15日付けで、故郷ドイツのヴュルツブルク Würzburg にいる母方の小父 (おじ)、フランツ・ヨーゼフ・ロッツ Franz Joseph Lotz に滝と暮らし始めたことを手紙で報告しています。
〓父親が早世 (そうせい) したために、シーボルトはカトリックの司祭だった小父に育てられました。
〓シーボルトが出島に到着したのが 1823年6月ですから、滞在5ヶ月めのできごとになります。
〓その手紙には、こうあります。
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Auch habe ich mich der alten holländischen Sitte unterworfen und mich pro tempore mit einer liebenswürdigen 16-jährigen Japanesin verbunden, die ich nicht wohl mit einer Europäerin vertausche.
わたしもオランダ人の昔ながらの習慣に従い、一時的に (pro tempore)、愛らしい16歳の日本の娘と結婚し (verbinden) ました。ヨーロッパの娘をこの娘の代わりにするなど考えられません。
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〓 verbinden (フェアビンデン) という動詞は、単に、「~と手を結ぶ」 という意味でもあるし、「~と結婚する」 という意味にも取れ、曖昧です。また、 pro tempore (プロ・テンポレ) というラテン語の副詞は 「さしあたって」 という意味ですし、「オランダ人の昔ながらの習慣に従い」 というのも、
夫人であろうと、出島に女を居住させることを禁じた出島の禁制
のゆえに、オランダ人が遊女を出島に呼び寄せることが習慣になっていたことを示します。オランダ人は出島から出ることが許されていませんでした。
〓この手紙が小父のフランツのもとに届いたのは、丸2年後でした。
すんまへんなあ。 アメブロの字数制限がきびしうて、どうしても細切れになりゃあす。 4 は ↓
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