“牛祭り” ―― あるいは 「ボスポラス」 と 「オックスフォード」 の共通点。── 2 | げたにれの “日日是言語学”

げたにれの “日日是言語学”

やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

       おうし座 こちらは 「牛祭り」 の 2 だモ~。 1 は ↓ だモ~。

                http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10186627088.html




*taur- の後継語は、ラテン語にもギリシャ語にもあります。


   taurus [ ' タウルス ] 「雄牛」。ラテン語
   ταῦρος tauros [ ' タウロス ] 「雄牛」。ラテン語


〓ギリシャ神話で有名な、「ミノタウロス」 の “タウロス” はこれです。



   Μίνω(ϝ)- Mīnō(w)- ← Μίνως Mīnōs [ ミ ' イノース ] 「ミノス」
    +
   ταῦρος tauros [ ' タウロス ] 「雄牛」
    ↓
   Μῑνωταῦρος Mīnōtauros [ ミーノー ' タウロス ] 「ミノスの雄牛」



〓いっぽう、「雌牛」 をラテン語で、


   vacca [ ' ワッカ ] 「雌牛」。ラテン語


と言いました。接尾辞 -īnus, -īna, -īnum を付けてできる形容詞形が、


   vaccīnus [ ワッ ' キーヌス ] 「牛の」


です。そして、


   variola vaccīna [ ワ ' リオら ワッ ' キーナ ] 「牛痘、牛の天然痘」。近代ラテン語


となります。英語で言うところの cowpox のことです。


〓ジェンナーが、ヒトにとっては天然痘よりも症状の軽い 「牛痘」 (ぎゅうとう) の膿 (うみ) を接種して、ヒトの天然痘の免疫獲得に利用したのは、どちらさまもごぞんじでしょう。種痘 smallpox vaccination です。

〓この 「種痘」 に用いられる医薬品を 「ワクチン」 と称します。これは、


   vaccine [ væk'si:n ] [ ヴァク ' スィーン ] 英語


のことです。日本語の場合は、ドイツ語 das Vakzin [ ヴァク ' ツィーン ] を経由して入ったので、“ワクチン” と言います。


〓英語の vaccine は、 vaccina 「牛の」 というラテン語を英語形に写したものです。すなわち、「牛痘」 のことです。「痘」 が省略されているのですね。アクセントが、英語として異質な語末に置かれているのは、ラテン語のアクセントが守られてきたからです。

 vaccine という単語は、その初期 (1803~) においては、「種痘」 の意味でした。いわゆる、「ワクチン」 の意味に転ずるのは、その40年後です。



〓さてと、これまで、「オーロックス」 aurochs、「雄牛」 bull, ox、「雌牛」 cow を取り上げてまいりましたが、「牛一般」 cattle を指す単語もありまさあね。

〓ラテン語・ギリシャ語には、「牛一般」 を指す共通の語彙が見えます。


   bōs [ ' ボース ] 「牛」。ラテン語
   βοῦς būs [ ' ブース ] 「牛」。ギリシャ語


〓実は、これは、英語の cow と同源なのであります。印欧祖語では、


   *gʷow- [ グォウ ] 印欧祖語


でした。これは、「牛」 を指す語としては、もっとも多くの語派に対応する単語を持つものではありますが、ここでは省略いたしやす。また、機会がござりましたら。

〓この語基は、ゲルマン祖語では *kō-, *kū- [ コー、クー ] となり、


   cow 英語
   Kuh [ クー ] ドイツ語


のもととなっています。
〓ラテン語、ギリシャ語では、  を b に変えてしまったワケです。印欧祖語では、破裂音が、他の破裂音とスリ替わる例はよく見られます。



〓英語で、「牛の」 という形容詞を bovine [ ' ボウ , ヴァイン ] と言います。日本のマスコミは、2001年の12月から、2002年の初期にかけて、 「狂牛病」 という言い方を、 BSE と言い換えました。これは、


   Bovine Spongiform Encephalopathy
      [ ' ボウ , ヴァイン ス ' パンヂ , フォァム エン , セファ ' ろパすぃ ]


の略です。ややこしい単語をカンケツに説明すると、



   spongi- ← spongia [ ス ' ポンギア ] 「海綿」。ラテン語
     +
   fōrm- ← fōrma [ ' フォールマ ] 「形状の、外観の」。ラテン語
     +
   -us  形容詞語尾
     ↓
   spongifōrmus [ スポンギ ' フォールムス ] 「海綿の形状をした」



   encephal- ← encephalon [ エン ' ケぱろン ] 「脳髄」。ラテン語
     +     ἐγκέφαλος eŋkephalos [ エン ' ケぱろス ] <形容詞> 頭の中の。
            ἐγκέφαλον eŋkephalon [ エン ' ケぱろン ] 頭の中の物。
   -o-  ギリシャ系の接合母音
     +
   pathīa [ パ ' てぃーア ] ← πάθεια patheia [ ' パてイア ] 「感じること、苦痛」
     ↓
   encephalopathīa [ エンケぱろパ ' てぃーア ] 「脳髄の苦痛」



〓これらは、いずれも近代ラテン語によるもので、たとえば、古典ギリシャ語には、 πάθεια patheia 「パテイア」 という独立した単語さえありません。「シンパシー」 の語源たる συμπάθεια sympatheia [ スュン ' パてイア ] のような用法があるのみです。



〓ところで、この 「狂牛病」 → 「BSE」 という言い換えは、


   BSE問題全国農業団体対策本部


からの “お願い” に添う、という形で進んだようです。


〓この “対策本部” というのは、「全国農業協同組合中央会」 など11の生産者団体で構成されるもので、「狂牛病という名前が、消費者に誤解を与え、不安を増大させている」 という理由から、この “お願い” がおこなわれたようです。


〓言い換えの是非はともかくとして、


   自分のあずかり知らないところで、自分の知らない理由により、
   自分の意思と関係なく、「コトバが言い換えられる」 ときには、
   これをよく監視しておく必要がありまさあね。


〓ところで、ラテン語で、「牛の」 という形容詞は、


   bovīnus [ ボ ' ウィーヌス ] 「牛の」。ラテン語


です。 bōs の形容詞が bovinus というのはフシギですが、 bōs の本来の語形は、


   *bovs [ ' ボウス ]  語根 bov-、語幹 bovi-


なのです。ラテン語は、 *bovs ということは、すなわち、 *bous ということです。ラテン語は、本来、 v と u を区別しませんので。しかし、 -ous で終わるラテン語彙なんて存在しないんです。これに似た音は、たとえば、 novus [ ' ノウゥス ] 「新しい」 のようになります。


〓なので、 o と v が融合して ō となるワケです。だから、


   bōs [ ' ボース ] 主格
   bovis [ ' ボウィス ] 属格


となり、母音に不規則な長短があるように見えます。


〓ギリシャ語も同じで、


   βοϝ - bow-   語根
   βοο- (← βοϝο-) bo(w)o-   語幹
     ※ ϝ は古典時代には消失していた子音 [ w ]


ということでしょう。


 ο-ο [ オオ ] が融合して [ ウー ] となります。オカシイと思うかもしれませんが、古い時代のギリシャ語では ου を 「オー」 と発音していました。なので、


   βοῦς būs [ ' ブース ] 主格
   βοός boós [ ボ ' オス ] 属格


という、一見、奇妙な曲用 (変化) が現れます。



〓ハナシは変わりまする。

〓ギリシャ神話によれば、アルゴスの地で女神ヘーラー Ἥρα Hērā [ ヘ ' エラー ] に仕えていた巫女 (ふじょ) ἱέρεια hiereia [ ヒ ' エレイア ] にイーオー Ἰώ Īō [ イーオ ' オ ] という娘がおりました。


〓ある日、巫女イーオーをひと目見てムラムラッと来てしまったギリシャの最高神ゼウスは、「イーオーと浮気をすんべえ」 と企てました。そこで、雲に姿を変え、イーオーを包み込んでコトにおよびましたそうな……




   げたにれの “日日是言語学”-ユピテルとイーオー
    コレッジオ Correggio の描く 『ユピテルとイーオー』。(すなわち、“ゼウスとイーオー”)

    ユピテルは雲に姿を変えて、イーオーを抱き、接吻をしている。



〓ところがところが、イーオーの仕える女神ヘーラーというのはゼウスのおかみさんであり、嫉妬心の強いことで名を轟かせていました。浮気相手に対しては、今なら週刊誌が飛びついて特集を組むような恐ろしい復讐を、いくどとなく繰り返してきた恐妻なのでした。


〓いっぽう、ゼウスというのは、女にダラシないことにかけては、これまた、ギリシャの最高神なのでした。なので、ヘーラーは、いつでも敏感な浮気アンテナをピピッと立てて警戒しておりました。なので、雲に変じて浮気の一幕なんぞ、すぐに気取 (けど) って、現場に踏み込んだのでした。



   げたにれの “日日是言語学”-ユピテルとイーオー3
    オランダの画家 ピーテル・ラストマン Pieter Lastman の描く 『ユピテルとイーオーを発見するユーノー』。

    ユーノーは、ヘーラーに当たるローマの女神。すなわち、浮気の現場、踏み込みの図、ということ。



〓あわてたゼウスは、イーオーを美しい若い雌牛に変えました。ヘーラーは、その雌牛をムリヤリ贈り物としてもらい受けると、これをオリーヴの木につなぎ、ゼウスが近寄れないように、“100の目を持つ巨人” 「アルゴス・パノプテース」 Ἄργος Πανόπτης Argos Panoptēs panoptēs は all-seeing の意の形容詞) に見張り番をさせました。


〓ゼウスは、イーオーを取り返そうと考え、英雄ヘルメースにアルゴスを殺させました。またも、ゼウスの陰謀を知ったヘーラーは、家畜に針を刺し血を吸う、


   1匹のアブ οἶστρος oistros [ ' オイストロス ]


を放ちました。
〓そのアブは、雌牛の姿のイーオーにいっときの休息もあたえず針を刺し続けました。イーオーは、狂わんばかりに苦しみ、アブから逃げ出すために、マルマラ海を泳ぎ渡り、狭い海峡を抜けて、黒海も泳ぎ渡ったそうです。




〓木星の第1衛星を 「イオ」 といいますね。


   Io [ 'aɪoʊ, 'i:oʊ ] [ ' アイオウ、 ' イーオウ ] 英語


〓木星を英語でナンと言いますね? Jupiter 「ジュピター」 ね。これはローマ神話の最高神 Jūppiter [ ' ユーッピテル ] の英語形です。そして、ローマ人は、ローマ神話の最高神 「ユーッピテル」 と、ギリシャ神話の最高神 「ゼウス」 を同一視していました。


〓では、木星 「ユーッピテル」 の4大衛星を並べてみましょう。


   Īō [ ' イーオー ] (ギリシャ神話より)
   Eurōpa [ エウ ' ローパ ] ← Εὐρώπη Eurōpē [ エウロ ' オペー ]
   Ganymēdēs [ ガニュ ' メーデース ] ← Γανυμήδης Ganymēdēs [ ガニュメ ' エデース ]
   Callistō [ カッ ' りストー ] ← Καλλιστώ Kallistō [ カッりスト ' オ ]



〓これらの名前を見ると、すべて、ゼウスが “チョカイを出した” 美少女・美少年なんですね。


「エウローペー」 は、フェニキア (今のレバノン) の美しい姫で、ゼウスは白い牡牛に化けて近づき、姫がその背中に乗ったとたんに、この姫をクレタ島へと拉致したのです。


〓また、「ガニュメーデース」 はトロイアの王子で、美しい少年でした。ゼウスは、この少年を天上界オリュンポスへと連れ去り、自分の酌人としました。


「カッリストー」 は、アルカディア王の娘で、処女としてアルテミスの従者をつとめていたんですが、この娘を見初 (みそ) めたゼウスは、アルテミスに化けてカッリストーに近づき、手籠めにしたんですわ。
〓例によって、嫉妬したヘーラーがカッリストーを熊に変えてしまいました。そして、この熊に姿を変えたカッリストーは、弓矢の名手であったアルテミスに射殺されてしまうのでした。この娘がいちばんかわいそう。合掌 しょぼん


〓とまあ、ゼウスというオッサンは、とにかくヒデえヤツなんすね。男女の見境までないという。この木星の4大衛星の名は、ゼウス (=ジュピター) の犠牲者リストなのです。



〓これらの衛星を発見したのはガリレオ・ガリレイですが、彼は、


   Medicea sīdera [ メ ' ディチェア ' スィーデラ ] 「メディチ家の星々」


と名付けました。これは、ガリレイのパトロンたる、トスカーナ大公コジモ2世の4人の息子に敬意を表した命名です。

〓ラテン語で 「星」 は sīdus [ ' スィードゥス ] <中性、ただし語幹は sīder- > で、その複数形が sīdera です。英語で言えば、 stars ですね。


〓「メディチ家の」 という形容詞は、 Medici の語根 Medic  に 「~に属する」 という意味を持つ形容詞語尾 -eus を付けて Mediceus [ メ ' ディチェウス ] (中世音)。 sīdera が中性複数なので、こちらの形容詞の語尾を -us から、中性複数の -a に変えます。なので、 Medicea となります。


〓先取権から言えば、このガリレイの命名が有効なハズですが、衛星に固有名を付けなかったため、ガリレイに数日遅れて発見したとされる、ドイツの天文学者 Simon Marius 「シモーン・マリウス」 による現行の名称が通用しているのです。


〓まあ、マリウスにブラックユーモア 得意げ のセンスがあった、ということでしょう。



〓ところででげすね、ギリシャの伝承では、ボスポラス海峡の名の由来を、以下のように説明しています。



   βοσ- ← βοός boós [ ボ ' オス ] 「牛の」。属格
      +
   πόρος poros [ ' ポロス ] 「海峡、河口」。
      ↓
   Βόσπορος Bosporos [ ' ボスポロス ]



〓ギリシャ神話に由来する命名、ということですね。


〓古典ギリシャ語では 「牛」 を合成語に使う際は、語根を使って βου- bū- とするのが通例です。 βοο- boo- という語形もわずかに見られます。しかし、属格を使ったのは、この地名一語のみです。
〓ゆえに、これは、


   φωσφόρος phōsphoros [ ぽース ' ぽロス ] 「光をもたらす」


という形容詞の 「トラキア方言形 (?)」 だという説があります。しかし、「トラキア方言」 というのが意味不明であるし、最初の φ が β になり、次の φ が π になる、という筋の通らない説明です。


〓この地名をラテン語では、 Bosphorus とし、2番目の π を φ であるかのように写すことがあるのは、 triumpus, triumphus [ トリ ' ウンプス、~ ' ウンぷス ] 「凱旋」 (← θρίαμβος thriambos [ ト ' リアンボス ]) 同様に、エトルリア語の影響ではないでしょうか。



〓ところで、 πόρος póros [ ' ポロス ] という単語は、そもそも、「川を渡る手段」 を指していました。この名詞じたいが、


   περάω peraō [ ペ ' ラオー ] 「横切る、渡る」


という動詞の派生語なのです。


〓それゆえ、転じて、「浅瀬、渡し船」 を指しました。また、さらに、転じて、「海峡、河口」 となったのです。



Liddell and Scott によれば、「ボスポロス」 という地名は、ひとりボスポラス海峡を指すのではなく、同名の海峡がいくつかあったそうです。ただし、現代の地名を検索しても、ギリシャ領内に 「ボスポロス」 (現代語つづりも古典語と同じ。ただし、発音は [ ' ヴォースポロス ] となる) という海峡はありません。
〓もっとも、現代のギリシャという国家は、かつてギリシャ人が進出し、植民した世界に比べ、きわめて小さく、また、海峡を持つような地形が存在しないので、しかたがないことなのです。


〓もうひとつの有名な 「ボスポロス海峡」 は、黒海とアゾフ海をつなぐ


   ケルチ海峡 Керченский пролив

              Kjerchenskij proliv [ ' キェルチェンスキイ プラ ' りーフ ] ロシア語


です。黒海周辺には、かつて、ギリシャ人の入植都市がたくさんありました。なので、ギリシャ語の地名があるのです。
〓紀元前5世紀に、アゾフ海沿岸およびクリミア半島の植民都市が発展して、後世 「ボスポロス王国」 と呼ばれる国家が形成されました。この名は、当時のケルチ海峡の呼び名から来ているワケです。


〓こちらの 「ボスポラス海峡」 の綴りには、


   Βοόσπορος Boósporos [ ボ ' オスポロス ]


の表記も見られるようです。つまり、 ο-ο が縮約されない 「属格のまま」 の語形ですね。


〓つまり、どういうことかというと、「ボスポロス」 という地名は、「ボスポラス海峡」 に固有の名ではなく、ギリシャ語では、同じような地形に使われる、ある種、定型の地名であった可能性があります。すなわち、


   「牛でも渡れる浅瀬」


というような意味であったでしょう。海峡が 「牛でも渡れる」 というのはオカシイようですが、「海にしては狭いこと」 を過大に言い表した表現ではあるまいか。


〓この Βόσπορος Bosporos を英語に置き換えるなら、すなわち、


   Ox-ford 「牛の渡れる浅瀬」


となるのです。地名のパターンというのが、言語は異なっても、しばしば、思考のパターンが類似している場合があることを示す好例です。