〓先日、“胡錦濤 (こきんとう) 国家主席の訛った上海万博開幕宣言” というオウワサを申し上げました。そのおり、
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反り舌 (そりじた) 子音のあとの母音 i は、発音記号では [ ʅ ] と記します。
実は、これは、正式の発音記号 (IPA) ではなく、中国語学のみで通用する 「慣用表記」 です。
これについてはいずれ申し上げましょう。
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というお約束をしました。アッシゃあ、これまで、何度も 「書く書く」 と言いながら、ホッカムリを決めこんでいる件がござります。今回は、早々に片づけやしょう。
【 「チャン・ツィイー」 は言いにくい 】
〓中国出身の女優、チャン・ツィイーですよ。
〓 TVやラジオで彼女の名前がどう発音されているか、よく注意して聞いていますと、多くの日本人が、
【 チャンツィー 】
アクセントは 「低高高低」 (○●●○)
と4拍で発音しています。
〓そりゃそうですよ。「ツィイー」 なんて発音しづらい。ムリです。
〓彼女の名前は、中国語では、
【 章子怡 】 Zhāng Zĭyí [ ʈʂɑŋ tsɿ:i: ] [ チャン ツーイー ]
と言います。日本語版 Wikipedia の “チャン・ツィイー” の項には、
実際の中国標準語の発音は、どちらかというと 「ヂャン・ヅーイー」 に近い。
と書いてありますが、決してそんなことはありませんので。「章」 も 「子」 も、中国語史上、「有声子音」 だったことはありまへん。
中国語の 「無気音」 は 「有声音」 (=濁音) で発音すればいいんだ
というカン違いをしているムキもあるようなので、少々、寄り道。
〓中国語の語彙の中には、
「助詞」 【 ~的 】 ~de 「~の」
「接尾辞」 【 ~子 】 ~zi “他の1音節語に付いて名詞をつくる”
「量詞」 【~个 (箇)】 ~ge 「~個」
のように他の語に付いて働く非独立語があります。こうした語は、他の語に接尾することで声調を失い、弱く 「有声音」 で発音される傾向があります。
〓しかし、通常の 「無気音」 の音節は、決して 「有声音」 (濁音) ではないし、「有声音」 (濁音) には聞こえません。
〓上海語 (シャンハイご) などは、古い時代の有声音を残していて、「無声無気音」-「無声有気音」-「有声音」 の対立を持っています。
【 上海語の 「無声無気音」、「無声有気音」、「有声音」 の対立 】
「刀、島、到」 [ tɔ ] [ トー ] “無声無気音” ※日本語 「トウ」
「討、套、滔」 [ tʰɔ ] [ とー ] “無声有気音” ※日本語 「トウ」
「道、導、稲」 [ dɔ ] [ ドー ] “有声音” ※日本語 「ドウ・トウ」
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【 北京音の場合 】
「刀、島、到」 [ taʊ ] [ タオ ] dao “(無声)無気音”
「討、套、滔」 [ tʰaʊ ] [ たオ ] tao “(無声)有気音”
「道、導、稲」 [ taʊ ] [ タオ ] dao “(無声)無気音” (← 有声音)
※声調は無視し、漢字は日本の字体にした。
〓「チャン・ツーイー」 は 「チャン・ツーイー」 です。
〓「怡」 yí [ イー ] は文語の形容詞で 「心が安らいで楽しむような・喜ぶような」 といった意味合いを持つようです。すると、「子怡」 [ ツーイー ] というのは 「子どもが喜ぶような」 という意味になりますね。
【 南仔、子怡奶粉在全国市場抽査合格率達到100% 】
Nánzǎi、Zĭyí nǎifěn zài quánguó shìchǎng chōuchá hégélǜ dádào bǎi fēnzhī bǎi (百分之百)
〓中国のネットから拾った文章です。2008年、中国では、メラミンの混入した粉ミルクを飲んだ厖大な数の乳幼児が腎不全を起こした事件がありました。そんな背景が見える一文ですね。
〓簡体字は日本の字形に改めてあります。日本で見ない漢字は、
【 奶 】 nǎi [ ナイ ] <口語> 「乳房、母乳」
ぐらいです。
〓中国語にも 「乳」 rǔ [ ʐu / ɻu ] [ じゅー / ルー ] という文字はあります。しかし、口語的で単独でも使えるのが 「奶」 で、「乳」 のほうは、文語的で、熟語の造語要素にしか使えません。
〓中国語じしんの語彙 (ごい) の新陳代謝のために、古い時代の単語 (文字) は、口語として使われなくなり、「ことわざ」、「成句」、「熟語の構成要素」 にのみ残っています。
〓日本語は、古い時代に借用した漢字をそのままの意味で使っているので、現代中国語とズレてしまうんですね。チョイとした漢字の “ウラシマ状態” です。
〓そのほかにも次のような例があります。
【 犬 】 quǎn [ ちゅアヌ ] <文語・造語要素> 「犬」
↓
【 狗 】 gǒu [ コウ ] <現代口語> 「犬」
【 卵 】 luǎn [ るアヌ ] <文語・造語要素> 「たまご」、また、学術語として 「卵子」
↓
【 蛋 】 dàn [ タヌ ] <現代口語> 「たまご」
※“皮蛋” pídàn [ ぴータン ] の “蛋” ですね。
“皮” は 「かわ」 ではなく、“ゴム”、“弾力のある” という意味。
〓「奶粉」 nǎifěn [ ナイフェヌ ] で “粉ミルク” という意味になります。「南仔」 と 「子怡」 は “粉ミルクのブランド名” です。どうです?
知っている漢字ばかりだと、発音はできなくても、
中国語の意味を取るのは、必ずしもムズカシクない
という例です。
〓「南仔 (ナンツァイ) 粉ミルク、子怡 (ツーイー) 粉ミルクが、全国市場抽出検査において、合格率 100%を達成した」 というニュースの見出しです。「子怡 (ツーイー) 粉ミルク」 というのは、「子どもが喜ぶ粉ミルク」 というネーミングではないかしら。
〓日本では、“章子怡” の名前の読みは 「チャン・ツィイー」 になってしまいました。しかし、中国語本来の発音は、先ほど申し上げたとおり、まず、どんな日本人が聞いても 100% 「ツーイー」 と聞こえます。
〓なぜ、ツィイーになってしまったか、というと、日本での映画の公開順序に原因があります。
〓彼女が映画デビューした最初の2作は次のとおりでした。
1999年 『初恋のきた道』 (中国)
2000年 『グリーン・デスティニー』 (米国=中国)
〓デビュー作は、張芸謀 (チャン・イーモウ) 監督の 『初恋のきた道』 だったんです。しかし、日本における劇場公開は 『グリーン・デスティニー』 が先でした。
〓おそらく、「ツィイー」 というカナ表記は、中国語にウトい “ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント” の担当者が 「やらかして」 しまったんでしょう。
〓その結果、彼女の名前は、ナンだかヘンテコで、言いにくい表記で定着してしまいました。
〓米国では、発音はハッキリ決まっていないようですが、一般には、
Zhang Ziyi [ dʒɑŋ zi:ji: ] [ ヂャン ズィーイー ]
といったところでしょう。
〓英語圏では 「発音記号」 (IPA) があまり普及しておらず、発音は、しばしば、ルールのハッキリしないアルファベット表記で示されます。こんなぐいあいですね。
Jahng Zee-Yee
〓ときには、正しい中国語の発音を指南しているムキもありますが、一般の米国人が、普通の会話で、正しい中国語の zh [ ʈʂ ] を発音するなんて 100%ありえないハナシです。実用的にはナンセンスですね。
〓映画の配給会社とか、音楽プロモーターといった会社の場合、“中国モノ” を扱うのは稀 (まれ) ですから、いきおい、担当部署に中国語のわかるニンゲンがいない、ということになります。
〓そういう部署の担当者の 「ヤラカした名前」 が定着してしまう、という例は、中国語にかぎらず、かなり多いのです。
許可 (许可) Xǔ Kě [ ɕy kʰɤ ] [ シューくー ] 中国の二胡奏者
慣用表記 「シュイ・クゥ」 → 適切な表記 「シュークー」
«菊豆» Júdòu [ tɕytəʊ ] [ チュートウ ] チャン・イーモウの映画
慣用表記 「チュイトウ」 → 適切な表記 「チュートウ」
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【 ロシア語の例 】
«Евгений Онегин» Jevgjenij Onjegin
[ イェヴ ' ギェーニイ ア ' ニェーギヌ ] プーシキンの小説、チャイコフスキイのオペラ
慣用表記 「エフゲニー」 → 適切な表記 「エウゲーニイ」
〓中国語の入門書の中には、 [ y ] という母音を 「ュイ」 というカナで表記しているものがあり、そのカナ表記を鵜呑みにしたものではないか、と思います。ずいぶん罪作りな入門書でゲスなあ。
【 ピンインの zi は、なぜ、“ツー” と読むのか? 】
〓中国語を始めたばかりのヒトは、
sì [ sɿ ] [ スー ] 「四」
zǐ [ tsɿ ] [ ツー ] 「子」
というピンインの読み方に面食らうと思います。どうしても、「スィー」、「ツィー」 と読みたくなる。
〓実は、古い時代の中国語では、それぞれ、「スィー」、「ツィー」 だったんです。日本語の音読み “四” 「シ」、“子” 「シ」 はその当時の発音 (中古音=5~11世紀) を写したものです。
〓日本人が漢字を採り入れたころは、日本語の発音も今とは異なっていました。つまり、
「ち」 ti (ティ)
「つ」 tu (トゥ)
だったんです。当時の日本語には chi 「チ」 も tsu 「ツ」 もありません。そのため、中国語の [ ts ] 音は 「サ行音」 として採り入れられました。なので、 si 「スィー」 も tsi 「ツィー」 も 「シ」 となるわけです。
〓中国語では、「中古音」 (5~11世紀) から 「近代音」 (12~19世紀) に移行するときに、 si 「スィ」、 tsi 「ツィ」 という音に異変が起こりました。それは、
硬口蓋化を避けるための母音の変質
でした。
〓「硬口蓋化」 というのは、「スィ」→「シ」、「ティ」→「チ」、「ズィ」→「ジ」、「ディ」→「ヂ」 のように、「イ」 の前の子音が “イの響きを持った子音に崩れてしまうこと” を言います。
〓日本語でも中世に 「硬口蓋化」 が起こったので、現代語では 「チ、ヂ」 は ti, di ではなく chi, ji なんですね。ただし、日本語の場合、「シ」 と 「セ」 は古くから口蓋化された音 shi, she であり、逆に、後世、「シェ」 が直音化して 「セ」 になりました。多くの方言では、つい最近まで、あるいは、現在でも 「セ」 を she と発音しています。
〓中国語でも、 [ si ] と [ tsi ] について 「硬口蓋化」 が起こりかけたのだと考えられます。ところが、12世紀の中国語の話者は断固としてそれを拒否しました。「硬口蓋化」 を阻止したのです。
〓とはいえ、 [ si ], [ tsi ] はひじょうに不安定な音なので、「硬口蓋化」 を防止する安全策を講じなくてはならない。そこで発明された発音法が、
舌を [ i ] の位置に移動しない
というものでした。
〓これはチョイとしたコロンブスのタマゴです。たいていの言語は、ダダラに 「硬口蓋化」 を起こしてしまいます。日本語しかり。英語だって nature 「ネイチャー」 なんて言ってます。
〓「硬口蓋化」 は後続する母音 [ i ] の舌の位置のセイで、子音が 「イ」 に近いものに変質してしまう現象です。だから、舌を [ i ] の位置に行かせないことにしたのです。まさに、「君子危うきに近寄らず」 であります。
〓だから、 si 「スー」 であり、 zi 「ツー」 なんすネ。面白いことに、12世紀以降に日本人が借用した中国語では、この 「スー、ツー」 の音が反映されます。
【 帽子 】 [ ボウシ ] 10世紀初出
【 帽子 】 [ モウス ] 「僧侶のかぶりもの」 14~15世紀ごろ初出
〓マージャンは、明治末期に、おそらく、上海租界から入ってきたものと思われますが、数の数え方は 「イー、リャン、サン、スー」 です。
〓中国語で、「ウー」 と発音する i が生まれたイキサツはガッテンいただけたでしょうか。この母音を有する音節は、
ci [ tsʰɿ ] [ つー ] cì=次
zi [ tsɿ ] [ ツー ] zī=姿资、zĭ=姊(姉)、zì=自
si [ sɿ ] [ スー ] sī=私、sĭ=死、sì=四
の3つだけです。いずれの字も日本語の音読みは、「シ」、「ジ」 です。
例によりまして 2 に続きます ↓
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