「チョナンカン」 の生まれた日。── 後編 | げたにれの “日日是言語学”

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やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

   パンダ こちらは 「後編」 のアタマです。「前編」 は ↓ でごわす。


        http://ameblo.jp/nirenoya/entry-10277076469.html




げたにれの “日日是言語学”-仙北市地図

             仙北市 地図  (仙北市ホームページより)






  【 「彅」 という字について考える 】


〓「草彅」 という名字 (苗字) は、現在の秋田県仙北市 (せんぼくし) が発祥のようです。

〓より細かく言うなら、合併前の 「田沢湖町」 (たざわこまち) の南西端部、すなわち、


   角館街道の “生保内 (おぼない)~角館 (かくのだて)” 間の沿道


あたりが発祥地と言えそうです。


Google マップで、オプションを “ビジネス” として 「草剪」 を検索すると、



   草剪工務店 …… 秋田県 仙北市 田沢湖 岡崎 字鎌川
   草剪木工所‎ …… 秋田県 仙北市 田沢湖 神代 字荒川尻関向
   草剪建築設計事務所 …… 秋田県 仙北市 角館町 上菅沢
   草剪呉服店 …… 秋田県 大仙市 大曲中通町


     ※検索のキーワードを “草剪” とする理由は後述



の4件がヒットします。
〓“角館街道” もしくは、現在の “秋田新幹線” に沿って、北からこの順番で並んでいます。


〓これら4件より、さらに北東の生保内 (おぼない)、すなわち、田沢湖駅近くには、重要文化財に指定されている




   げたにれの “日日是言語学”-草彅家住宅   仙北市ホームページより

   草彅家住宅



があります。寄棟造 (よせむねづくり)、茅葺 (かやぶき) 屋根の曲屋 (まがりや) で、天保年間 (19世紀) に建てられたものです。
〓この草彅家住宅は、仙北市 田沢湖 生保内 (おぼない) 字野村 (あざ のむら) にあります。「生保内」 は、JR田沢湖線の田沢湖駅のある町で、「田沢湖駅」 という駅名も、かつては 「生保内駅」 でした。この駅から2キロほど南に草彅家があります。


仙北市 (せんぼくし) は、2005年 (平成17年) の町村合併で、角館町 (かくのだてまち)、田沢湖町 (たざわこまち)、西木村 (にしきむら) が合わさって生まれた市です。
〓仙北市という名称を採用したものの、この地域は、もともと “仙北郡” の北半分であり、アリテイに言うなら 「北仙北」 (きたせんぼく) とも言うべき地域です。
〓もともと郡名ですから、「仙北」 という名の局所的な土地があるわけではありません。ですから、市の中心は 「生保内」 (おぼない) であり、市の中心の駅は 「田沢湖駅」 です。


〓生保内には、「生保内川」 (おぼないがわ) が流れており、このことから、この地名は


   アイヌ語


であろうと推測できます。
〓北海道に 「~ナイ」、「~ベツ」 という地名がたくさんありますが、東北にも 「~ナイ」 のつく川が見られます。こういうことを書くと、単細胞なヒトは、この土地に住むのはアイヌ人だ、というような決めつけをしたがりますが、そんな単純なものではないでしょう。
〓ただ、かつて、この地域にアイヌ人の村があった可能性は高い。


〓重要文化財の 「草彅家」 が生保内にあるからと言って、「草彅家」 の本拠が生保内だったとは断定ができません。すでに見たように、「草彅」 という名字は、生保内から南西に向かって、角館町 (かくのだてまち)、大仙市 (だいせんし) にも分布しているからです。


2006101日、仙北市 田沢湖卒田 (そつだ) の林道で、マイタケ採りをしていた草彅幸雄さん (当時73歳) がクマに襲われ、同行していた玉井さんという人がナタで撃退する、という事件がありました。この事件現場も、やはり、草彅姓の多い地域にあります。



Google Map では、「草彅」 という名字を、「草剪」 で検索しました。「草彅」 ではうまく検索結果がでないからです。「草剪」 というキーワードは、まさかと思ってためしにやってみたら、みごとにヒットしたのでした。
〓従来、「彅」 の字が活字・写植・JIS漢字表になかったために、この名字の人たちが、慣用的に 「草剪」 と表記してきたようすがうかがえます。



げたにれの “日日是言語学”-秋田県の草薙・草彅
 秋田県の草薙・草彅姓の商店・事業所の分布図。赤が 「草薙」。青が 「草彅」。緑は草彅さんがクマに襲われた地点。




〓同じように、Google Map でオプションを “ビジネス” として、この地域で 「草薙」 (くさなぎ) を検索すると、「草薙」 という名字が 「草彅」 の分布域の東側に隣接するように、秋田県 大仙市 (だいせんし) に固まっているのがわかります。「草彅」 さんが街道沿いなのに対して、「草薙」 さんは街道より東寄り、山の麓のあたりに存在します。



   草薙著作権登録事務所 …… 秋田県 大仙市 栗沢 字社前
   草薙商店 …… 秋田県 大仙市 豊岡 字中荒井野
   草薙商店 …… 秋田県 大仙市 豊岡 字中荒井野 ※上とは番地の違う別の店
   草薙輪店 …… 秋田県 大仙市 豊川 字元畑
   草薙商店 …… 秋田県 仙北郡 美郷町 中野字寺田
   (有)草薙電子製作所 …… 秋田県 仙北郡 美郷町 畑屋 字街道東



〓中国や韓国の 「姓」 が先祖代々、不変なのに対して、日本の 「名字」 (苗字) というものは容易に変化するものでした。武家は、ヨソの領地を攻め落としたり、あるいは、分家によって本拠地が変わったりするため、“本拠地の地名” に由来する 「名字」 も、しばしば、変化しました。
〓また、分家する際には、本家に遠慮して、名字の文字を変えたりすることもありました。「草彅」 という名字もそのようなものだった可能性が高いと思われます。



〓「草薙」 というのは奇妙な点のある名字で、


   「草薙」 という地名は静岡県にある


にもかかわらず、「草薙」 とう名字は、


   秋田県と香川県


に集中して存在します。


〓“姓氏” の研究家も、おしなべて 「草薙」 という名字の起源については不明としています。表記には、


   草薙、草彅、草柳、日柳


が見えます。「草柳」 は “くさやなぎ” と読む場合のほうが多いでしょう。「日柳」 は幕末の志士


   日柳燕石 「くさなぎ えんせき」


で有名ですが、讃岐国 (さぬきのくに) 出身の燕石のもとの名字は 「草薙」 です。



げたにれの “日日是言語学”-香川県の草薙

 香川県付近の 「草薙」 姓の商店・事業所。




〓ならば、「日柳」 という表記は存在しないのか、というと、さにあらず、検索してみると、現に香川県に見られます。おそらく、「草薙」 の分家筋でしょうが、日柳燕石の子孫なのかどうかは子細に調べないとわかりません。


   草薙 → 草彅  …… 秋田県の分家表記
   草薙 → 日柳  …… 香川県の分家表記


〓「草薙」、「日柳」 という名字は、香川県丸亀市および仲多度郡 (なかたどぐん) に多く見られます。日柳燕石も現在の仲多度郡の出身です。


〓草彅剛さんは、愛媛県 西宇和郡 三瓶町 <みかめちょう> (現 西予市 <せいよし> 三瓶町) の生まれとされています。宇和海、豊後水道に臨む海辺の町で、宇和島市と佐多岬の中間のあたりです。もっとも、2歳ごろに、まるで環境のちがう埼玉県春日部市に転居しているとのことですが。(ただし、ジャニーズ事務所の公式ページでは、埼玉県出身としています。また、Wikipedia でも “要出典” とされています)

〓香川県丸亀市と愛媛県三瓶町とは、近いと言えば近いですが、香川の 「クサナギ」 姓には “草彅” という表記は見られません。つまり、秋田県の人が、なぜか、愛媛県に来ていたことになります。フシギですね。



               クローバー               クローバー               クローバー



〓「草彅」 の 「彅」 が 「薙」 の書き換え字であるのは、ほぼ、間違いないと思います。しかし、なぜ、「弓+剪」 なのかは必ずしもハッキリしていません。国字というのは、民間でいつの間にか使われるようになった文字がほとんどであり、字源はわからないのが普通です。
〓一部の漢和辞典に、「彅」 は 「強の略+剪」 と書かれていますが、なぜ、そう言えるのか理由は書かれていません。


〓地元には、11世紀なかばの “前九年の役” (ぜんくねんのえき) において、源義家 (みなもとのよしいえ) が、地元の和泉小太郎という者に 「草彅」 の名字を与えた、という伝承があるようです。


〓なんでも、義家が馬にて藪 (やぶ) を進むおりに、小太郎という者が



   弓手 (ゆんで) に “弓” を持ち、
   右手 (めて) に持ったる “刀” にて、
   義家が馬 “前”“草” を薙いで道をつくった



とのことです。で、「弓+前+刀」 で “彅” だと言うんですが……
〓もっとも伝承は伝承。



〓もし、「草彅家」 が 「草薙家」 の分家だとすると、まず、「薙ぐ」 (なぐ) に対して、「剪る」 (きる) という文字を持ってきた。そして、本家の “薙” の字に 「矢」 が含まれるので、それにあやかり 「弓」 を持ってきた、と推測できます。



   「弓」 + 「剪」 「彅」






  【 中国語・韓国語から見た 「彅」 】



〓「彅」 という文字は、韓国にないのはもちろん、中国にもありませんでした。そのため、中国では、


   草剪 Cǎojiǎn Gāng [ つァオチエヌカン ] 「ツァオチエン・カン」
      ※ 「刚」 は 「剛」 の簡体字


と書かれるのが普通でした。


〓しかし、これは、必ずしも、中国で使われているパソコンで日本の国字が使用できなかったからではありません。
〓中国では、日本の国字などを含んだ文字コード、いわゆる、GBK という規格が1993年に発布されています。そして、この GBK には、すでに、「彅」 (8F94) の字も含まれていました。GBK を採用した、中国向け “Microsoft Windows 95 簡体中文版” の発売以降、中国のパソコンでも 「彅」 という文字を入力できるハズでした。


〓とはいえ、漢字の入力方法がいろいろある現在とちがい、当時は、見たことも聞いたこともない漢字をキーボードから入力するのは、トホウにくれる作業だったにちがいありません。
〓そもそも、一般の中国人が、自分のパソコンの内部に 「彅」 という字があるのかどうかさえ確かめるのは困難だったでしょう。初めから “ない” と思い込んで、「草彅」 を 「草剪」 と入力していたかもしれません。



〓最近では、日本のタレントの名前に国字が使われていても、中国語の文中でそのまま表記されることが多くなっています。
〓とは言え、まだまだ徹底しているとは言えず、いろいろと中途半端な奇妙な表記が見られます。
〓たとえば、辻ちゃんこと 「辻希美」 (つじ のぞみ) さんの名前の表記を検索してみましょうか。



     げたにれの “日日是言語学”-辻希美


   【 中国 】 ※ Yahoo! China (雅虎中国) による

   辻希美 …… 5,530件  Shi Xīmĕi [ しーシーメイ ]
   过希美 …… 577件  Guò Xīmĕi [ クオシーメイ ]
   過希美 …… 426件  ※“过希美” の繁体字表記
   迁希美 …… 224件  Qiān Xīmĕi [ ちエヌシーメイ ]
   叶希美 …… 2件  Yè Xīmĕi [ イエシーメイ ]
   遷希美 …… 1件  ※“迁希美” の繁体字表記



   【 台湾 】 ※ Google 台湾、国内限定

   過希美 …… 8,100件
   辻希美 …… 2,940件
   叶希美 …… 14件
   遷希美 …… 2件



   【 香港 】 ※ Google 香港、地域内限定

   辻希美 …… 3,380件
   過希美 …… 1,720件
   过希美 …… 17件
   遷希美 …… 5件
   叶希美 …… 5件
   迁希美 …… 4件



〓「辻」 というのは、もちろん、国字です。だから、サンプルに使わせてもらったわけです。この 「辻」 という漢字は、「辶」 が “行くこと” をあらわし、「十」 が四つ辻を示します。


〓「モーニング娘。」 “早安少女组。” zăoān shàonǚzŭ [ ツァオアヌ しゃオニュツー ] 当時の辻ちゃんの名前は、中国語文中で、名字を書くのを避けて、


   「早安少女希美」

   「早安少女成员希美」


と書いている例も多く見られます。今でも、「辻」 を避けようとすれば、


   「原早安少女希美」


となります。

〓いっぽうで、ムリして 「辻」 を入力した結果が 「过」、「迁」 という字です。それぞれ、「過」、「遷」 の簡体字で、「辻」 とは関係がありません。単に字形が似ているだけです。


〓「辻」 という字には音読みがありませんが、中国の字典では 「十」 shí の音を取って、shi としています。しかし、声調は特定されていません。


〓検索結果は実にオモシロイです。大陸中国および香港では、すでに、「辻希美」 がメジャーになっています。ところが、


   台湾では、「過希美」 が圧倒的に多い


です。つまり、台湾では、本来の 「シーシーメイ」 (辻希美) ではなく、「クオシーメイ」 (過希美) と呼ばれていることになります。


〓そして、ここに1つの謎が浮かんできます。すなわち、「過希美」 という表記が生まれた原因は、


   日本 「辻希美」
     ↓
   中国 「过希美」  ※字形が似ているから
     ↓
   台湾 「過希美」  ※簡体字を繁体字に復元したもの


というプロセスを経たからにちがいありません。
〓台湾人が、なぜ、大陸中国の簡体字表記をなぞって 「過希美」 と表記するようになったのか、まったく奇妙です。「辻」 に似ている字を使うならば、「迂希美」 などという表記も考えられるのに、Google 台湾では1件もヒットしません。



               ビール               ビール               ビール



〓このデンで、「草彅剛」 さんの名前を検索すると次のようになります。



   【 中国 】
   草剪刚 …… 136,000件  Cǎojiǎn Gāng [ つァオチエヌカン ]
   草彅刚 …… 77,600件  Cǎojian Gāng [ つァオチエヌカン ]


   【 台湾 】
   草彅剛 …… 48,800件
   草剪剛 …… 9,780件


   【 香港 】
   草彅剛 …… 15,000件
   草剪剛 …… 8,020件



〓おそらく、辻ちゃんより遙かに早くから有名だったために、中国では、すっかり、草剪剛 (いわば、“クサキリ・ツヨシ”) で定着してしまったんでしょう。だから、「彅」 が入力できるようになっても、「草剪」 という表記のほうが相変わらず多い。
〓ところが、こんどは辻ちゃんの場合とは反対に、台湾のほうで圧倒的に正しい表記が多くなっています。なぜ、こういうことになるのか、フシギとしか言いようがありません。


〓中国の字典では、「彅」 は 「剪」 同様に jian [ チエヌ ] という音だとしていますが、やはり、声調の指示がありません。もっとも、3音節の人名の場合、実際の口語では、真ん中の音節が声調を失って軽声 (けいせい) になるので、「草彅剛」 以外に使われない 「彅」 の読み方については実質的に問題がない、と言えます。




〓現在の韓国語では、日本人の名前を漢字読みせず、日本語音を音としてハングルで転写するようになっているので、日本人の名前の漢字表記を韓国語でどのように発音すべきか、というようなことが問題になることはありません。
〓「チョナンカン」 という名前の場合、この現在の名前の転写法を逆手にとって、


   漢字をじかに韓国語読みすることで、実質的な 「芸名」 を創り出した


といえます。



〓韓国語版 Wikipedia 「クサナギツヨシ」 の項目では、「彅」 の本来の字形である 「薙」 についてふれています。

〓「彅」 という漢字が “韓国語の字典にも載っている” というのは、おそらく、Unicode とか CJKV (中国、日本、韓国、ヴェトナム <チュノム> の統合的な文字体系) といった規格が登場したために採録せざるをえなくなったのでしょう。
〓「彅」 に対する “전” chɔn [ チョヌ ] という韓国語音は、単に、「剪」 の音を援用したにすぎません。いずれにせよ、韓国語としては 「チョン」 という音さえ定義されていれば済むことで字義は必要ありません。必要あったとしても 「薙」 と同義とすればよいことです。



〓「彅」 を 「薙」 に置き換えて読むならば、


   【 草薙剛 】
   “초치강” chho-chhi-gaŋ 「チョチガン」、または、
   “초체강” chho-chhe-gaŋ 「チョチェガン」 と読むのが正しい


という Wikipedia の説明は、まったく、その通りです。どちらかと言えば、「チョチェガン」 のほうが正当でしょう。



「薙」 という字の日本語音にも、まったく、韓国と同様に2通りの音があります。すなわち、


   “치” chhi [ ち ] …… 日本語音 「チ」
   “체” chhe [ ちぇ ] …… 日本語音 「テイ」


の2音で、「呉音」 (ごおん) ウンヌンではなく、どちらも 「漢音」 です。


〓「薙」 という字は、日本では 「なぎたおす」 の 「なぐ」 (=横にはらって切る) と読まれますが、「薙」 という漢字の中国語における本来の意味は少しちがっていました。



   【 薙 】 [ テイ ] (韓国音 체 chhe
    (1)雑草を刈る。
    (2)毛を剃る。 (=剃)


   【 薙 】 [ チ ] (韓国音 치 chhi
     「辛薙」 (シンチ) で辛夷 (こぶし) の異名。
       ※韓国語版 Wikipedia で “モクレン” と書かれている音に当たる。



〓本来は、単に 「雑草を刈る」 という動詞であり、日本語で言うような 「薙ぐ」 ── 勢いよく横にはらって切る ── というようなニュアンスは持ちません。だから、「剃る」 という語義もあるわけです。「薙」 は、むしろ、「かる」 (刈る) と訓じるべき文字でした。「なぐ」 は日本におけるニュアンスの脚色です。



現代中国語には、実質的に 「薙」 という字は残っていません。
〓使われるとしても、「薙」 には1通りの発音しか残っておらず、また、語義としても、「雑草を刈る」 という義は失われ、「剃」 (そる) の異体字として扱われます。
〓現代中国語の文脈では、ほぼ、「神薙」 とか 「草薙」 のような日本語の固有名詞にしか現れません。


〓中国の11世紀、宋代の 『集韻』 (しゅういん) という韻書 (漢字の発音辞典のようなもの) には、「薙」 の字に対して、



   【 薙 】   (中古音 <ちゅうこおん> 5~11世紀)
    / zi / 2 [ ズィー ]
    / diei / 3 [ ディエイ ]  ※当時の 「剃」 は / thiei / 3 [ てぃエイ ]
    / ȡi / 2 [ ヂー ]  ※当時の 「雉」 と同音


      ※ / / 内はピンインではなくIPA表記です。声調は以下のとおり。
         1 …… 平声 (ひょうしょう)
         2 …… 上声 (じょうしょう)
         3 …… 去声 (きょしょう)
         4 …… 入声 (にっしょう)



という3つの音が示されています。
〓これらの発音は、それぞれ、現代語では、



    / zi / 2 → sì [ スー ]
    / diei / 3 → dì [ ティー ]
    / ȡi / 2 → zhì [ ちー ]  ※「雉」 はこの発音になっている

      ※左はIPA表記、右はピンイン表記です



とならなければなりません。実際、中古音で 「薙」 同様 / ȡi / 2 だった 「雉」 (キジ) という語は、法則どおり zhì になっています。
〓この / ȡi / 2 「ヂー」 という音は 「辛薙」 (シンチ) の 「チ」 であり、現代語に残っていれば 「辛薙」 xīnzhì [ シンちー ] のハズですが、現代中国語ではまったくの死語です。


/ zi / 2 「ズィー」 という音は消失し、/ diei / 3 「ディエイ」 という音が現代まで残ったのですが、本来あるべき、dì [ ティー ] [ ti ] ではなく、tì [ てぃー ] [ tʰi ] になっています。
〓これは、すなわち、「薙」 という字が早くから 「草を刈る」 の語義を失い、「剃」 (そる) の “同義語、異体字” としか見なされて来なかったことを示すのでしょう。


〓すなわち、


   現代中国語では 「薙」 という字に関して、本来の語義も発音も何ひとつ残っていない


のです。


〓「薙」 という字は、「雉」 が音符であることから / ȡi / 2 → zhì という発音が本来なのでしょう。日本語で言えば 「チ」 です。「テイ」 は 「剃」 と同義ゆえの発音です。



〓推定上古音 (じょうこおん/しょうこおん。紀元前~4世紀) からの流れをみると、以下のようになります。



   【 剃 】
    / thiei / 3 → / thiei / 3 → / thi / 4 → tì (/ thi / 4)


   【 薙 】
                   → / thi / 4 → tì (/ thi / 4)
          → / diei / 3 →   ×  [ → dì (/ ti / 4)]     ※消滅
    / dĭei / 3 
          → / ȡi / 2  →   ×  [ → zhì (/ ʈʂʅ / 4)]    
※消滅


   【 雉 】
    / dĭei / 2 → / ȡi / 2  → / ʈʂi / 4  → zhì (/ ʈʂʅ / 4)



〓「雉」 は “鳥のキジ” を意味する文字ですが、現代語では文語であり、口語では使用しません。また、「雉」 という文字の部首は 「矢ヘン」 ではなく、「隹」 (ふるとり) です。


〓“ふるとり” というのは 「古鳥」 の意味ですが、「古い時代の鳥という字」 という意味ではなく、「舊」 (“旧” の正字体) に含まれるので、「旧鳥」 (ふるとり) です。




    ■ 「鳥」 の古形                      ■ 「隹」 の古形


   げたにれの “日日是言語学”-鳥の古字    げたにれの “日日是言語学”-隹の古字



〓象形文字 (甲骨文) の段階では、「とり」 に2字があり、「鳥」 が “尾の長い鳥”、「隹」 が “尾の短い鳥” でした。

〓「雉」 にては 「矢」 のほうが音をあらわします。「隹」 は画数が多いので、部首でありながら、ヘンにはならず、ツクリのほうに置かれるわけです。文字の構成に対する古代中国人の美的センスが反映されているだけです。




〓最後のほうは、難解な “蛇足” のようなハナシになってしまいました。中国―韓国―日本のあいだで、漢字音はどのように対応するのか、1つの例として興味深かったもんですから……